Il était un petit navire... ― 2014/04/03 00:40:02
それからまもなく、ウイルス性の結膜炎になったらしくて右眼がまっ赤になり、上下両まぶたがパンパンに腫れて、眠っている間に目やにが噴出して目が開かないほどである……という散々な状態に慌てて眼科ヘ行き、心配ありませんよという優しいお言葉と点眼薬をもらって、最悪の状態から少し回復はした。したが、間もなくかゆみが治まらなくなり、これは結膜炎ではなく、花粉だとぴんときた。
まだ2月だというのに……。杉花粉しか飛んでいないはずなのに。
何年か前、花粉シーズンのまっただ中、耳鼻科医が処方してくれるアレルギー用の点眼薬が全然効かないので眼科に駆け込み、これを使っているんですけど効かないんです、とかゆみを治める目薬を頼んだのだが、私が差し出した点眼薬を見て眼科医は言った。「これが効かないのなら効く点眼薬はありません」
この年から、花粉シーズンの目のかゆみを治めることは諦めた。耳鼻科医もあれやこれやとさまざまな点眼薬を出して試させてくれるのだが、いずれも差した瞬間にひんやりして気持ちいいという以外の利点が見つからない。
こうしてブログ書いてる間も、目のかゆみのために私は涙が止まらないのである。
2月の終わりから薬を飲んでいた成果が少しばかりあったのか、3月は穏やかに過ごしたけれど、春分過ぎたあたりから目がつらいつらい。
この冬は雪と雨が多かったので、生乾きな感じの洗濯物を室内で乾かす日々が続いた。娘がいないので、彼女が宿題やらなんやらをひろげてあれこれの活動に使用していた居間が空いているのですっかり物干し場と化している。
2、3年前に隣家が家を建て替えたがそのおかげで向こうから見て北隣の我が家はまったく太陽の恩恵を受けなくなってしまった。きれいに晴れた日でも冬場は直射日光がない。建て替わってすぐのシーズンは物干しに並べている植木のいくつかが枯れてしまったほどだ。ったくどうしてくれるよ忌々しい。そんなわけで、とにかく天候に関係なく洗濯物は乾かないので部屋干し癖がついてしまった。やがて花粉が飛び始める。できるだけ花粉を浴びたり吸ったりしないように、屋外で干すのは御法度とした。
しかし、しかしですよ。今日は少し洗濯物を溜め込んだので大量の洗濯を敢行。……したはいいけど、部屋干し用の物干しに全部がかからない。しょうがないので屋外物干しにいくつかをかけた。問題はそれを取り込むときである。パンパンとはたいてから室内に持ち込むのはもちろんだが、はたいている最中に、はたかれた花粉が私に飛び移る。それが、きっといつまでも取れないのだ。
鼻水鼻づまりとは無縁だが、目のかゆみが甚だしい。花粉でかゆいのか、疲れてかゆいのか。たぶん、両方なのだろう。
しんどい。誰か私に目をちょうだい。
La pleine lune! ― 2013/09/19 22:04:04

C'est pas possible qu'on déménage ce samedi! ― 2012/12/19 21:18:31

どうなってしまうんだろう。
わたしにはわからない。
たぶん、たいしてどうってことないままに時間ばかりが過ぎ、極右前線の軍曹たちは、徐々に徐々になんて当たり障りのない言いかたでさまざまなことをあいまいにしたままなし崩し的にあらぬ方向へ舵を取り、彼らが見下している愚民がふと気づいた時にはすっかり、大企業たちだけが儲かり底辺の庶民はますます貧しくなり日本のすべての海岸でゲンパツ様が動き、中規模オール電化邸宅に住むような中途半端な小金持ち家庭がやはり原子力は必要ですわね家計にやさしいクリーンエネルギーですものねおほほなんてゴキゲンライフを謳歌する、そしてそれが日本のマジョリティだと大手マスゴミや企業の犬・巨大広告代理店の手によって世界に向けて発信されてしまっているのだろう。
でも、つとめて明るく振舞おう。
ペシミズムは、何も生まないもの。
悲観的になって、憂いてばかりいるのはよそう。
暗い暗い暗い将来しか待っていないかのようなここの国の人間として、まだあと80年くらい生きていかなければならない子を育てているんだもん。
猫さまが言うように、体力つけて、生き延びなきゃ。
Canada de Nihongoさんブログから。
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http://canadadenihongo.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html
「未来の党」議員、山本太郎さん、宇都宮けんじさんらに感謝の手紙を!
Facebookに「おーい!止めたいママアクション」というグループのページがある。
そのグループが将来の子供達のことを思うママさんたちのかわりに原発に反対の意思を表示してくれた「未来の党」や山本太郎さん、そして、宇都宮けんじさんらに感謝の手紙を書いたらどうかと提案して下さった。
選挙の結果に落ち込むだけでなく、次のステップへの第一歩として、反原発の勇士たちに感謝の意を示すというのは、とてもすばらしいことだと思う。
私たちの感謝の言葉が、彼らが又次も闘おうという元気の源になるかもしれない。
小沢氏が悪党だというイメージを国民に刷り込んだ大手マスコミの陰謀をかわす戦略として、小沢氏を前面に出さず、嘉田由紀子氏を「未来の党」の代表にしたのは、決して間違っていなかったと思う。
もちろん、小沢ファンは、小沢氏が前面に出て闘ってくれることを望んでいただろう。しかし、もし、そうしていたら、メディアに洗脳された国民は、たとえ、原発をなくしたいと思っていても、せっかく脱原発で一つになった「未来の党」にそっぽを向いてしまっただろう。
小沢氏の戦略や「未来の党」の議員たちが訴えていたことは、全て正しかったと思う。
彼らを励ますためにも、地元の「未来の党」の議員、そして、山本太郎氏や宇都宮けんじ氏に感謝の手紙を書こうではないか。
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わたしは、手紙は書かないけど、心から叫ぶよ「アイラヴユー!」
Nous allons déménager à la fin de l'année. ― 2012/12/05 00:46:36

※ハシリのことを「ダイドコ」と書いてました、失礼。正確には「ダイドコ」はハシリに隣接する部屋のことで、いわば茶の間、ダイニングルームなの。12月11日訂正。






Vous aimez TCHAIKOVSKY? ― 2012/11/26 19:51:25
北野天満宮の大銀杏。

立派だねえ。美しいねえ。

もちろん、紅葉もあるのよ。



昨日は25日、「天神さん」の日だった。北野天満宮はもんのすごい人だった。
でも、天神さんの日だから出かけたわけではない。
また、私が眼鏡で凝視していたのは美しく色づいたもみじではない。
天満宮の近くにはとある文化ホールがあって、そこで地元団体主催のバレエコンクールが行われていたのだ。
夏に入賞したさなぎは意気揚々と、去年やおとどしと違って入賞狙いで挑んだ。これまでは予選通過で御の字だったけど、いったん入賞したからにはやはりさらに上を目指さねば、ということだったんだが――例年どおり危なげなく決戦に進んだけれど、またも玉砕……。
終了後は近場のフレンチで二人で打ち上げしたのだが、さなぎを慰めながら私のほうがヤケ酒あおる始末(笑。普段飲まない強いビールをがばがば飲んじゃった)。朝からずっと会場内で、ほかの子の踊りを見つめ続けていたせいで、目はしょぼしょぼヒクヒク、ビールに酔いが回ってこめかみがズキズキ。そう、眼鏡をかけて凝視していたのは舞台である。ほかの子の踊りなんて退屈極まりなく、途中で睡魔に襲われる。しかし、とびきり上手な子の踊りには覚醒させられる。目が釘づけになるというのはこのことだな。おおおすんばらしい! しかし、こんな踊りをされたのではとても一般人には勝ち目がない。いったい何を食べてどんな生活をしていたらあの動きができるのか。親は活路が見いだせず悶々とするしかなく、娘が喜んだり落ち込んだりするのを傍観するしかないのである。
勝負は時の運。いや、そもそも舞台芸術は勝負ではないのだから、上位陣と自分との、技術や表現力、芸術性の差をよく自覚して、何が評価されて、どこがよくなかったかをよく反省すべしというところだろう。
このコンクールでは、審査員のアドヴァイスコメントシートがもらえる。痛いところを突いてくるジャッジもいて、目から鱗だったりする。普段、同じ顔ぶれから指導されている身にとって、それは非常にありがたいことだ。
さっそくその指摘を踊りに反映し、2月に控えている海外遠征での舞台に生かしたいと、素早い立ち直りでけなげに笑って見せるさなぎだったが。
今日、仲介事務局から連絡があって「演目の変更」を要請してきた。
海外のイベント主催者がそういう方針を打ち出したというのである。
「えええええええーーーーーやばーーーーーー」(byさなぎ)
12月と1月のレッスンだけで新しい演目を仕上げなくてはいけない。
「わあああああーーーーんんんっっ冬休み登校日も宿題もテストもあんのにーーーー」(byさなぎ)
天はなぜ我が娘にこのように苦難を強いられるのか(笑)。
あたし、なんかアンタに悪いことしたかい?と、雨の止まない空をヒクつく目で見つめて、毒づいた午後であった。
Oui, je t'aime! ― 2012/11/15 19:49:11

内田 樹、高橋源一郎著 (対談)
(進行:渋谷陽一)
ロッキングオン (2010/12)
眼がね……疲れるのよね、とても。この頃すっごく。PC見ている時間も、本読む時間も以前に比べて別に増えてはいないのに。これも老化現象かなあ。老眼が進んだから、コンタクトやめてメガネに替えたけど、だんだん度が合わなくなってきてるし。年中、皮膚の乾燥がひどいんだけど(これって昔はなかった症状なのよね、ほんの数年よ乾燥肌デビューして)、とうとう眼にも来たかあ? ドライアイって、どの程度でドライっていえるのかな? 来春が思いやられるよ~~(超ど級花粉症)
本書の続編『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか』が出版されてるのに第一弾について今頃言及するのはたいへん遅きに失した感があるのだが、昨日、ノダヌキが「解散してもいい!」なんてゆっちゃったよニュースを読んで、なんだか感慨深いものを感じたのである。
写真に写っている本書は図書館で借りたもの。発売後すぐは例によって予約が殺到していた。しばらくして予約数ゼロになって借りて読んだが、大震災の後だった。だから、けっして読後感は悪くなかったが、ちょっと虚しかった。大震災の後って、なんであれ、俎上に乗っているあれやこれやすべてどうでもいい、東北を何とかしようよって、日本中が思ったよね。
民主党ってなんだったっけ? みたいな、政治スライム状態の今、政権交代直後からを扱っている本書を読み直すとけっこう面白いかも、と思った。で、もう一度借りて読んでみたのだ。
私は「ロック」という分野にとんと疎いので、一部のロック野郎さんたちにとって『ロッキング・オン』や「渋谷陽一」という名詞が 「=神」に等しいということも、最近知ったのである。最近といってもまあこの2年ほど、なんだけど。というのも『SIGHT』という、『ロッキング・オン』別冊という位置づけの雑誌にたびたび愛するウチダが寄稿したり、対談したりしているのを何かで見て『SIGHT』を借りて読んだり、ある号は購入したりするようになった。東日本大震災以降は、やはり反核反原発志向を明快にしているので、手にしても違和感がなかった。ただ、『ロッキング・オン』や「渋谷陽一」って何?誰?の域を長いこと出なかった。というか、どうでもよかった。いまでも、どうでもいい。
本書で渋谷陽一は司会進行役であり、随所で長い発言もしているのだが、ちょっぴりずれていて悲しかったり、ウチダや高橋源一郎に「いや、違うよ」と完全に否定されるならまだいいほうで「そうかもね」「それは置いといてさ」とスルーされたり、あるいは相槌すら打たれた気配なく次の発言に移ってしまったりするのが滑稽であり、ときどき「渋谷くんの言うことはこういうことなんだよね」「それは確かに理解できるよ」なんて二人から助け舟出されたりしているに至っては、ある人々はたぶん「渋谷の発言はすべて削って編集すべきだった」という感想をもつに違いないと思わせるに十分だ。でも、私は滑稽さもご愛嬌だと楽しめた。本書は政治の専門家が真面目に議論をしているわけではない。武道家+小説家+音楽評論家なんて、レツゴー三匹の漫才のほうがましだよ。
その程度だと思って読めば、十分に面白い。
私は対談本は好きではない。編集されてきれいに整えられているに決まっているし、しかもそれは喋ったメンバーの都合よりは出版社(主催者)の都合だったりするからだ。愛するウチダがいくら「この対談本には危ない話も暴論も脱線も全部入ってます」と言っても、そこは必ず「ここから先はアウト」の線引き、校閲なしには進まないのだから、すべてありのままというわけにはいかない。
本書でも、たぶん渋谷はもっともっと頓珍漢な発言を多々していたに違いないけど、それは対談の体裁を向上させるために削除されているはずだ。
対談の臨場感を残すことと、読みやすく整えることは相反する。
ウチダが、ブログに書き連ねたことを再編集して出した本でなく、まさに「本を書く」ために書いた本には、彼の渾身の愛がこもっていて、重く、厚く、深い。何度読んでも、涙が出る。ゆっておくが、文章のうまさに感動するとか、真実を突いてるから得心するとか、そんなことで出る涙ではない。彼の思考の軌跡をたどることで私の思考が奇跡に達するから、とでもいえばいいだろうか。彼の1行1行が、「今」の「私」の思いの筋にぴったり呼応する。このことは、同じ本でも、読む時期、読む時間、読む気持ちによって異なるのだ。
そういうウチダの本を読んだ者(と一般的な書き方をしたが、先のような感想をもつのは私くらいだろう)にとっては、ウチダの対談本は、彼が遊んでいるようにしか見えない。時にそれは不愉快である。だが、長年自称ウチダの弟子をやっていると、彼の遊びの範囲もわかる。彼は極端な表現をし、それを暴言と批判されたりもするが、そんなの全部「シャレ」である。それは、ウチダばかり読んでると、肌でわかるようになる。活字の並び方でわかる。
本書は、高橋源一郎ファンにとってはどう位置づけされるのだろう。私はこの小説家の小説を一度も読んだことがない。以前購読していた新聞にコラムを交代で連載していたことがあったが、その文体も話題の取り上げかたも好きではなかった。新聞をきっかけにその作家の小説を読みたくなる、ということが私にはよくあるのだが、高橋にはそういう欲望を覚えずじまいだった。
対談を素直に読み進んでいくと、舌も滑らかに高橋が話題を提供する横で、時に鋭い指摘とともに持論を展開するウチダ、外れた合いの手を入れて無視される渋谷、という図があまりに明快なものだから、あまり余計なことを考えないで、まさにトークを聞く感じですっすっと読んでしまう。300ページをはるかに超えるが、あっという間に読める。そして、えっと、何の本だっけ? と、内容については思い出せない。たしかあれについて書いてたけど、どこだっけ? ま、いっか。みたいな読後感。
そんな本なので、一気に読んだけど全然眼は疲れない。
対談は2009年から2010年8月に行われたもので、政権与党が民主党になってから、首相が鳩山から菅に代わったあたりまでである。そしてページの多数を小沢一郎について割いている。小沢シンパの私にとって、楽しい内容であった。小沢大嫌いの渋谷が本の最後のほうで「小沢さんってすごいですね」というのを目にすると、ちょっと渋谷が気の毒に感じた。だってこの人、「みんなの党」支持者なんだよね。
L'Amérique, on t'aime pas!!! ― 2012/10/19 01:52:54

真面目に言わせていただくが、ほんとにアメリカ人ってバカ。
北米に友達が何人か住んでるし、アメリカ人の友達がいないわけじゃないし、究極のバカがたった数人、日本でそのバカ面と脳みそ空っぽぶりと発情期のケモノ丸出しの節操のなさを暴露したからと言って米国民全員をバカ扱いするのは、いくら反米イデオロギーに凝り固まった私でも多少は気が引ける。気が引けるけど、言う。
お前ら全員、バーーーーーーーーーカ!!!
こんちくしょーめ。
まさに畜生だよっ
ずーっと何年も何年も継続して開催されている小規模な日米関係と国際政治の討論会があってその記録と原稿まとめの仕事をしているんだけど、なんでよりによってこの私にこの仕事をしろというのかしら神様は、と幾度思ったか知れない。だけど反米イデオロギーの権化のような私に、ちょっとは頭を冷やすようにという思し召しなのだわと、あまりのくだらなさに脳も体も心もスライム化しそうな2時間半を年2回、足かけ8年、耐え続けている。
今年度2回目が近々あるんだけど、めっさ気ぃ重いーーー。
テーマは日中韓米国関係。みんなしたり顔で領土問題とか語り合うねん、きっと。ウチらの目の前にはそんなもんよりもっともっと大事なことが山積みやん。
写真は1週間前の隣市の午後の空。
沖縄のために祈ります。
Le monde est si claire comme ceci, je ne savais pas! ― 2012/09/19 18:07:18
入院した翌日に右眼の手術が行われた。その日退社後病室に立ち寄ると、顔中眼帯だらけ、という形容がおかしいのはわかっているがそうとしか言いようのない状態の、母はたいへん上機嫌で、「すぐ終わったわー」と言っていた。その二日後に左眼の手術が行われたが、右眼のときより少し時間がかかったらしい。夜様子を見に行くと、同じように済むと思っていたのにずいぶん長かった――母は何か左眼によからぬことが発見されたのではと気を揉んでいた。医師は機械の調整に手間取っただけと説明したらしいがこんなことは疑いだすときりがない。翌朝の診察で問題なしといわれるまでドキドキしていたらしい。
白内障の手術では麻酔を打つのは眼球だけである。したがって意識ははっきりしているし、落ちてきたら顔がぺしゃんこになるよと思うほど(「顔の真上にな、機械がいっぱいあんねん」)顔面を機械に覆われるし、「上にあるランプを見つめていてくださいね」という医師の指示どおりにじっと上方を凝視していないといけないし、なのに眼球はいじくられているし(「なんか知らんかちゃかちゃかちゃかちゃ目のとこでしたはんねん」)、短時間とはいえその間ピクリとも動いてはいけないので手足は頑丈に縛りつけられるし、手術室は殺風景で寒々しいし(「部屋(=病室)は狭い狭いとこに6人も容れられてんのにな、手術するとこは部屋の何倍も何倍も広いねん、真ん中にベッドひとつだけあってな、その周りに大きな機械ばっかり、ぎょうさんあんねん。ひやあ、かなんわあ、こんなとこ、て思うえ。あんなとこ、誰も行かしとうないわ」)……と、病気になどかかったことがなく手術も入院も出産以外に経験のない母にはたいへんなビッグイベントであった。ま、しかし、幸い、合併症も何もなかった。追加の精密検査とか新たに疾病発見とか、手術順番待ちの3か月間はそのようなネタが心配されていたが、終わりよければすべてよしの見本のようなイベントであった。
さて、帰宅した母。家の壁や柱やガラス障子には、余白がないほど孫の写真や描いた絵や賞状や書き初めや似顔絵などが貼りつくされているのだが、大きな数字のカレンダーも含めほとんど見えていなかったそれらが今クリアに見えているそうだ。
白内障を患う前から老眼はめいっぱい進んでいたし、そもそも近眼もあったはずなので、長年視界はかなり不良だったはずである。見えてへんのんちゃう?と視力の衰えを指摘すると意地になって否定してきた(「ちゃんと見えてますっ」)母なので、実際どの程度見えていて、見えていなかったのかは、私にはわからない。いまやよおくよおく見えるようになったいろいろなものを、じーっと凝視していたりするが、孫の写真なんて、10年以上同じものが貼ってあるのだぞ。「ぽぽちゃんまできれいに見えるわー♪」という発言は、人形のぽぽちゃんをだっこした3歳のさなぎの写真がそこに貼ってあることを13年前から認識していてのものなのか、はなはだ定かではないが、もはや追及する気力は私にはないので、とりあえず、今はよく見えてよかったよかっためでたしめでたし、なのである。
それにしても、もう明日は退院という日の午後に足を運んだのだが、もう両の眼で見える状態になっていた母の、私をじろじろと見つめたあの表情は忘れられない(笑)。このお調子もん然としたオバハン誰やのん、ほんまにわたしのむすめなんかいな、と言いたげで、非常に可笑しかった。
Pour ta maman, l'opération de la cataracte, c'est assez simple et sans douleur. ― 2012/09/11 17:23:09
毎日母と眼科詣でをできる人間は、残念ながらいないのである。こういうときに身内に付き添う余裕もないなんて、理不尽な社会だが、そんなところに向かって愚痴っても仕方がなく。
専業主婦の弟嫁はヒマしてるんだが、弟嫁ひとりに母を託すのは、酷である。母は重いので、万一転倒などしたあかつきには、彼女一人では母をけっして起こせはしないのである(コツが要るのよ)。
というわけで入院させる道を選んだ。入院先の総合病院は私の勤務先の近く。ここの眼科医は白内障の権威とやらで(全然知らんかったけど)、受診して手術と入院を決めたはいいが、3か月待ち。
てなわけで、3か月前から、母は隣近所の井戸端会議仲間に白内障の手術をすることを言いふらしていて、誰もが「手術はとても簡単」「手術後は世界が変わったようによく見えるよ」と母に言うのですっかり手術を楽しいイベントとして心待ちにしていたのである。
私は隣近所や商店街を歩いて母の仲間に会うたびに、「お母さんの手術っていつやったっけ?」「こわがらんでもええのんえってゆうたげて」「よう見えるようになったら溌剌としゃはるえ」などと声をかけられた。私は家の中ではあまりしゃべらないので、おしゃべりな母はそこらじゅうを話し相手にして発散していると見える(笑)。ご近所があってよかったと思うのはこんな時である。いまや母の白内障入院は町内会はもとより学区内のお友達から商店街の面々まで皆さんがそのスケジュールをご存じである。
幸い、今ちょうど仕事がピークを迎える嵐の前で、私も少し時間に余裕があるので毎日病室を覗いて帰ることができそうである。母は入院が決まった時から(つまり3か月前から)、猫のリーちゃんの餌やりをとても心配していて、「かしこうしてへんかったら、お母さんご飯くれはんの、忘れはるえ」(忘れへんてば)「ご飯食べたらちゃんとお母さんにごちそうさまってゆうのんえ」(ゆうわけないやろ)と毎日毎日四六時中猫にそんなことを言い、私に向かっては「何時と何時にご飯やるのん、会社から早う帰ってこれるんか」「お昼ご飯やりに帰ってこれへんの」みたいなことをこれまた朝晩必ず言い続けてきたのである(なんで娘や自分ではなく猫のご飯中心に動かないかんのよ)。たぶん、病室を覗いても、話はリーちゃんの餌やりに尽きるに決まってる。はいはい。
J'ai mal aux yeux... sacré des pollens !!!!! ― 2012/03/30 19:42:44
私の周囲の花粉症持ちはみな目が痒いと言っている。もちろんマスクをして言う。鼻水・くしゃみの症状もあるわけだ。が、目の痒みは年々ひどくなる一方だという。思うに、花粉症の症状は、発症後数年間は主に鼻腔に症状が出るが、だんだんと眼に移行していくのであろうか。まるで足並みを揃えるように、周囲では眼の症状を訴える人が増えてきた。
「鼻と眼は顔の奥でつながってますから、点鼻薬は眼の症状にも効果がありますよ。もちろん、眼のほうからの点眼薬も必要だけどね」と私の耳鼻咽喉科医は言う。
噴霧された点鼻薬が眼球を覆う上下まぶたにまで届くというのなら(いや、医師はそうは言ってないんだけど)、花粉に反応する受容体も鼻腔から徐々に移動するんだろうか。いやあ、まさか、そりゃ違うだろうな。まぶたはまぶたで、受容体が発生してると考えるほうが自然だな。
私の場合、眼が何かに反応してアレルギー症状を起こすのは、花粉症という言葉がこんなに流通する以前にもあった。それは、ただ私の眼が人より虚弱で敏感な上にコンタクトを装着しているからだと思っていた。この眼の症状にかんする最後の記憶は、忘れもしない、ある秋のことだった。赤子の娘を預けている保育園で保育士と交わした会話。さなぎちゃんのお母さん、眼鏡ってかけておられましたっけ? いえ、いつもはコンタクトなんですが、目が痛痒くて、腫れと目やにがすごくてコンタクトレンズはしばらく止めなさいって医者に言われたんです、時々あるんですよね、こういうことが。そうですか、お大事に、それにしても眼鏡、お似合いですよとっても。
そう、季節を問わずその症状はいきなり訪れ、どうしようもない目の痒みとともに、とてつもなく大量の目やにだとか、止まらない涙だとか、そんなものに悩まされる日々が続き、コンタクトレンズを使えないので学生時代に使っていた古い眼鏡を引っ張り出して昭和な顔になったりしたものだ。当時、花粉症じたいはすでにあったと思われるが、まだポピュラーではなかった。
いわゆる「鼻水・くしゃみの花粉症」は、娘が3、4歳の頃だろうか、遊びに行った動物園で、突然始まった。猿を見てたか象を見てたか忘れたが、止まらないくしゃみと鼻水に、いきなり、襲われた。ゴールデンウイークのさなかだった。晴れていた。暑かった。風邪などひく理由がない。
仕事の関係者にその話をした。
「ちょーこさん、それは花粉症です」
「え? だって、スギやヒノキはもう終わったでしょ? 花粉って3月から4月までじゃないんですか」
彼はふっふっふと薄笑いを浮かべ、まるで最後通牒のようにこう告げたのだ。
「イネ科は今飛んでますよ」
その年から毎年、人より少し遅れてGW前後を皮切りに、私の花粉デイズが始まることとなった。春のその症状が出始めてから、例の原因不明の眼の突発性アレルギー症状がぴたりと出なくなった。あれはいったいなんだったのだろう。起こった理由もなくなった理由も追求せずじまいである。
GWを発症時期の目安にしていたが、それをヒノキのピークである4月初めに修正するのにそう年数はかからなかった。そして、かつてとは異なる痒みや異物感を目に発症するのも、まもなくのことだった。4月・5月・6月と続く花粉デイズは、やがてスギ・ヒノキ・イネの3本立てで3月・4月・5月・6月にまたがることとなる。これってさ、1年の約3分の1だぞ。大きくないかい。
薬を飲み始めるとどうしても体がだるくなり疲労感が増すので、飲み始める時期を後ろへずらそうとつい思う。医師はそれがよくないという。早めに飲み始めるのが結局は楽に過ごすための道なんですよ。ちきしょーめ製薬会社と国の陰謀には加担しないぞ。いや、だからというわけではなく、単に時間がなかったので今年も3月下旬になってようやくかかりつけの耳鼻科へ行った。飛散量の多寡や天候は、あまり関係がないと私は思っている。わずかでも飛んでれば反応する。雨の日は、その日の花粉は水滴が落としてくれるかもしれないが、家も職場も取引先も、昨日おとといの花粉が室内に残ったままである。取り込んだ洗濯物や、同僚のコートが花粉を室内に持ち込む。昨日や今日のようによく晴れて気温も高いと当然よく開花して大量の花粉が飛散するが、明日あさってが雨だからって、インドアライフの私のまわりは花粉だらけに違いはないのである。
そして多数派のスギさんヒノキさんが終わったら、世の中は花粉シーズンも終わったよかったよかったと一気に夏のイベント宣伝へと舵を切る。ったくバカヤローだよ。私の戦いはまだまだ続くというのに。
そんなわけで、例年お岩状態と表現する私の顔だが、今年はどちらかというと、殴り合いの喧嘩をして負けたやんちゃ坊主みたいである。目の周りに丸く痣をつくった顔、あれである。
つい手で目をこすったりしないように自制するつもりで、アイメイクをしっかり施すように心がけているのだが、過剰な瞬きのせいか、夕方になるとメイクが滲んでパンダ目である。
思うに、眼の症状を訴える人が増えているから、「夕方パンダ族」はこっそり増えているはずだ。仕事の後のお出かけには入念なメイク直しが必要なことであろう。
私はといえば花粉症の薬を服用中は禁酒してるんだけど、毎夕ひどい顔になるし化粧直しのパワーもないので、どのみち飲み会なんぞへは足が向かない。まったくゼロってわけにもいかないにしても、約4か月近く外出も晩酌もしない私。これが10年以上続いていることが恐ろしい。何ゆえ私は耐えているのか。ああ、黒ビール飲みたい。