C'est moins intéressant qu'avant. ― 2011/10/03 22:08:17
ヴァージニア・ユウワー・ウルフ著
こだまともこ訳
小学館(2009年)
『レモネードを作ろう』の続編。
ヒロインのラヴォーンは15歳になっている。
続編といっても、本書の物語は完結しているので、
『レモネードを作ろう』を読んでいなくてもこれはこれで楽しめる。
楽しめる、といったが、
『レモネードを作ろう』に比べるとかなりつまらない。
『レモネードを作ろう』が、けっこう、
米国に点在するスラム街に潜む、
相変わらず解決されていない問題をあぶりだすと同時に、
それでも解決しようと多くの人々や組織が、
積極的な動きを見せていることを、
物語のベースで語っている……という意味で
読み応えがあったといえるのに比べて、
本書『トゥルー・ビリーヴァー』は、
軸になっているのがヒロインの純粋な恋心だったりするので、
いくら米国社会の病巣をやはり描いている、といっても、
訴求力はかなり弱いといえばいいだろうか。
で、こんなふうに、前作同様、
文をブツ切って書かれているので、
やっぱ女子高生のつぶやきとゆーか、
ケータイブログ見ているみたいというか、
若干じれったくてイラつく挙げ句に
ヒロインの恋はなーんだありがち、な感じで終わる。
ヒロインの母の恋もなーんだありがち、な感じで終わる。
だから私などはつまらねえ、と思う。
いや、しかし。
それでも、日本のティーンエイジャーに読んでもらいたい!
と強く思う。
そのわけは、ヒロインのラヴォーンが、
将来、面接試験を受けたり、大学進学や就職をして、
社会へ出るときのために、
「正しい話し方」の授業を受けるシーンが
頻繁に出てくるからである。
原書では当然「正しい米語文法」を教師が教えているはずだが、
訳者はみごとに、現代の日本語の乱れをそれに呼応させ、
我が国の、めちゃくちゃな若者(ばかりではない)の言葉遣いに
間接的に警鐘を鳴らしている。
日本の中高生、必読。
たぶん君たちなら、面白く読めるんじゃないかな。
『レモネードを作ろう』は、
ちょっと日本の状況とはかけ離れていたけれど、
本書はもう少し自分に引き寄せて読めると思う。
でも、恋の行方はとってもアメリカ的だけどね。
両作とも、出版社はそれぞれ「感動の大作!」なんていってるけど、
それほどでもない。
どちらも、等身大の物語でありながら、日米の文化の違い、
社会の違いをこれでもかと知らされる内容だから、
ある人にはショッキング、ある人には「ついてけねえー」、
ある人には織り込み済み、または関心外だろう。
それでも両作とも読む価値はあるよ。
このヒロイン、ラヴォーンの物語は3部作らしい。
次の物語では、ラヴォーンはさらに成長しているだろう。
私としては、もうちょっと脱線してもらいたい。
この2作とも、ヒロインはいい子過ぎる。
周りがハチャメチャなので、
ヒロインの常識人ぶりが不必要に際立つ。
大人にぐっと近づく前に、ぐたぐたべこべこになった
ラヴォーンを書いてくれたらもう少し読む気が起こるかも。
さて、作家志望の諸君のために著者紹介。著者はあのヴァージニア・ウルフとは全然関係なくて(まだゆってる)、こんな人である。どっかのサイトの引き写しでごめん。作家としては遅咲きみたいよ。
ウルフ,ヴァージニア・ユウワー
Wolff, Virginia Euwer
オレゴン州ポートランド生まれ。大学を卒業してから結婚し2児をもうけた後、小学校、高校で英語を教える。後に離婚。50歳を過ぎてから執筆をはじめ、現在は教職をやめて作家活動に専念し、ヤングアダルト向けの作品を書き続けている。デビュー作品で国際読書協会賞ほかを受賞して以来、数々の賞を受賞している。邦訳は『レモネードを作ろう』(徳間書店)。
C'est assez intéressant. ― 2011/09/30 02:37:09

ヴァージニア・ユウワー・ウルフ著
こだま ともこ訳
徳間書店(1999年)
14歳のラヴォーンは母親と二人暮し。
小さな頃に父親を亡くした。
母親が働いて生活はなんとかやっていけている。
だけどラヴォーンは、この町の、この暮らしから脱出したいと切に願う。
どうすればいいんだろう。
そうだ、勉強して大学にいくんだ。
固く決心するラヴォーン。
素晴しいわ、あなたが大学へ行きたいと願うなんて。
母親は心底嬉しそうで、あなたならきっとできると娘を励ます。
たくさん勉強しなくちゃね。そしてお金も必要だわ。
お金。ラヴォーンは自分も何かしなくては、
と健気にアルバイトを探すのである。
アルバイトをすれば、勉強時間を削られる。
できるだけそういうロスタイムのないように働くにはどうしたらいいのだろう。
ラヴォーンが見つけたのはベビーシッターという仕事。
小さな子どもの世話をして、保護者が帰宅するまで留守番していればいい。
子どもを寝かしつけたら勉強していればいいんだし。
これっていいかも!
ラヴォーンは掲示板で見たベビーシッター募集の広告主を訪ねる。
まだハイハイもできない赤ん坊。
おむつの取れない3歳児。
二人の乳幼児を抱えて、四六時中町工場で働くのは、
17歳のジョリー。
ジョリーははっきり言わないけれど、
上の男の子・ジェレミーと、下の女の子・ジリーの父親は、違うみたいだ。
17歳の二人の子持ちのシングルマザー。
14歳のベビーシッター。
その母親は子育てと仕事を両立させてきた強い女性。
ラヴォーンの母親から見るとジョリーは危なっかしくて「めちゃくちゃよ」。
ラヴォーンにはそんなアルバイトはやめてほしい。
ラヴォーンだってわかっている。
ジョリーの影響は少なからずあるし(言葉遣いが悪くなった)、
留守番中の勉強なんてほとんど捗らないし、
実際成績は落ちるし、
ジョリーは工場をクビになってバイト代の支払いは滞るし……
だけどラヴォーンは、やめない。
ジェレミーは、いつのまにかラヴォーンになついて離れない。
ラヴォーンを見ると安心する。
ラヴォーンにのせられておむつも外れちゃった。
ベッドメイキングだってできるようになった。
ラヴォーンが蒔いたレモンの種の芽が出るのを、
今か今かと待ち続けるジェレミー。
ラヴォーンは、この子たちに「普通の」環境で育ってほしいと思う。
ジョリーが、途中でやめた学業を再開し、
社会へ出ても恥ずかしくない程度に読み書きができ(今は知らない言葉が多すぎる)
きちんと手続きをして福祉サービスを受け、
子どもたちに十分な保育環境を整えて。
そこまで、この親子3人にたどり着いてほしい。
ラヴォーンはその実現のために本気でこの親子にかかわっていく。
……というふうに、なんだか散文詩みたいな書きかたをされた小説である。YA小説を引き続き読んでいて、なんだかめぼしいものはみんな借り出されちゃっているので、あんまり残ってないなー何でもいいかな、日本の作家のものが読みたいんだけど、アメリカもんでもいいか、あれ、何だこれ、ヴァージニアウルフってYA小説まで書いてたのぉ???
と、大いなる勘違いで借りたのがこの『レモネードを作ろう』である。
開くと、余白の面積がやたら大きいのである。上でつらつら書いたように、センテンスは短く、長い場合は読点で改行されてて、1行がページの下端まで到達することが全然ない。叙事詩じゃないんだからよ。たくもう。失敗だったかなこりゃ、だって私ったら底抜けの馬鹿よねヴァージニア・ウルフなワケないじゃん。とアメリカンな自分突っ込みをしたりしながら読み進んでいくとこれが意外と深刻なネタで、まったくお母さんは呆れてものが言えないわっみたいな内容である。
こういうのを読むと、いつかドラマでやっていた『14歳の母』なんてのは、めっさニッポンなんだよねえ、甘くて口当たりいいのよねえ、と思っちゃうんです。
Qu'est-ce que c'est le terrorisme? ― 2011/09/16 21:28:45

加藤 朗著
かもがわ出版(2011年9月11日)
表紙の装幀はいかにもツインビルを髣髴させるオブジェの写真なのだが、編集段階ではいくつか案があって迷っていたようだ。どこかのブログに書いてあった。
そのブログに載せてあった別の案は、「テロ問題」というテーマを踏まえた場合、いずれも説得力のないように思えた。このテーマと関わりないデザインだとしても、13歳あるいは中学生の関心を惹く表紙になってはいなかった。さらに、頭が固くなって想像力の働かない大人には、どの案でもテロを思い浮かべるのは無理だろう。最終的に決まった表紙の写真は、あたかも破壊された二つのビルを象徴しているように私には思えたが、全然連想できない人もいるだろう。タイトルと、目次などに目を通して初めて、あ、あのテロねと気づく。そういう人が多数派かもしれない。
本書の中で中学生たちが素直に吐露しているが、「テロといわれてもピンと来ない」、それがふつうの日本人の感覚だ。テロというとき、現在の日本人が真っ先に思うのはグラウンド・ゼロ、すなわち同盟国である我らが友人アメリカ合衆国様が多大なる被害を受けた「あの」同時多発テロであろう。その次には、いわゆるパレスチナ問題に思いのいく人が多いのではないか。自爆テロといえばそれはパレスチナ人がイスラエル人を道連れにして殺す手段の代名詞である。
本書ではこのほかにアフガニスタンのタリバンによるテロなどが例示される。古くはたった一人を狙った暗殺もテロだった。テロは体制に反感をもつ者が自己主張をするための暴力的手段である。時代を経てそれは大掛かりになり、本当に殺したい個人を狙うのではなく、国家や政府が対象となるために「暗殺」では追いつかないから、何のかかわりもない無辜の市民をいわば人質にして、多数巻き添えにして命を奪うというパターンになって幾久しい。
本書の中では、テロという行為にある二面性について真剣に議論されている。ビンラディンの主張の正当性は、米国から見れば極端な原理主義による狂気に過ぎず、米国が振りかざす正義や民主主義は、ビンラディンあるいはアルカイダあるいは一般のイスラム教徒たちにとって権力者の寝言にしか聞こえない。双方が自身を正義もしくは神の意思の遂行者と信じている。それによる行動をテロと呼ぶとき、テロは誰による、誰にとってのテロ(恐怖)なのか。オバマ政権があっさり有無を言わせずビンラディンを銃殺してしまったが、この行為も向こう側(パキスタン、イスラム教徒)から見ればテロである。
表と裏にはそれぞれ言い分がある。
神の名のもとに、悪者を成敗したのだ。
どっちも、そう言う。
愛する者を殺され、許せないから復讐した。
どっちも、本音だろう。
神の名のもと、正義の名のもとであれば武力に訴え人を殺してよいのか。
中学生たちに答えは出せない。
もちろん加藤氏にも、出せない。
本書の企画のために、実際に、加藤氏が中学3年生を相手にテロをテーマに授業をしたそうだ。丁寧に編集されているのを感じるが、また、中学生も先生も非常によく考え抜いたようすが窺えるのだが、どうもその臨場感がいまひとつ伝わってこない。思いのほかいいことを言う中学生たちであるし、また素直に考え抜いて発言している。わからないことはわからないと言う。わからないままにせず必死で考えてもいるようだ。それは透けて見えなくもないが、たぶん現場を共有した加藤さんほどには、読者は議論の内容に共鳴できない。それは、この問題が考えれば考えるほど堂々巡りになり永遠に答えなど出せそうもないということが早くに露呈してしまっていることにも原因はあろう。だが、もう少し誌面のつくりや編集方法に工夫がされていたら、とくに中学生くらいの読者は出席者に共感を覚えつつ読み進むことができるのではないだろうか。
各章のあとに「大人のための補習授業」と題して、大人向けのちょっぴり難易度の高いヴォキャブラリーを用いた解説ページを設けてある。大人の読者にはそれがありがたいかというと、そうでもない。その内容はすでに中学生と先生が議論したじゃないのさ、それを少し書き直しただけのことじゃないのさ、という感じだ。同じようなことを二度読まされるのは、まったく同じではないにしても、ちと、しんどい。
と、ここまで読まれて皆さんはどう思われるだろうか。本書は、たしかに、テロ問題の権威が中学生と行った議論を採録する形で書き下ろした、テロについて考える本である。
「だけどなんだかつまらなそう」
そういうふうにお感じではないか。
テロに関する本が愉快なわけはない。
でも、そうじゃなくて、つまんなーい、のだ。教室で先生と一緒に考えて発言をひねり出している中学生、それを受け止める先生、双方ともにエキサイティングな時間だっただろう。しかしそれをいわば見物している形の読者には、さんまや紳助がイマイチなタレントや芸人をずらっと並べて喋らせて揚げ足とっていたぶり、それを見た収録スタジオ見学者の笑う様子をテレビ越しに見て「ちっ……くだらねえ」と舌打ちする気分に似ている。あんたたちは楽しそうだけどこっちは全然よ。
そして、もう一つ原因がわかった。これは私だけの印象である。時間と紙幅の関係から昨今起きたすべてのテロについて解説し考察するわけにはいかない。だからしゃあないけど、チェチェンのことにぜーんぜん触れていないのが悔しい(笑)。
ロシア側はチェチェン独立派によるテロという表現をするが、チェチェンから見れば先にテロ行為を国家規模で先に働いたのはロシアなのである。
チェチェンをネタにすれば事はまたしても複雑になる。中学生にとってかの国そして旧ソ連組は理解を超えて超えて超えすぎる。
わかっちゃいるが、チェチェンのチェの字もなかったことはやっぱ悔しい(笑)。ふん。
《それは、今までに経験したことのないような至福の時間であった。(中略)私が授業をして生徒の発言を引き出しているのではない。生徒たちの発言が私に授業をさせているのだ。教えるなどと不遜な気持ちは抱きようもなかった。教育ではない。まさに「共育」。生徒も教師も授業を通じて共に育っていくことが教育の本質だと実感した。》(159ページ、あとがきより)
というわけで、加藤先生も中学生たちも至福の時を過ごされたようなのでめでたしめでたし、なのである。
今日、ニュースが、大阪の府教委の委員が橋下知事率いる「維新の会」が制定しようとしている「条例」にいっせいに反発していると伝えていた。国旗掲揚国歌斉唱の強制も然りだが、国の名のもとに「教えさせてやっているのだ」といわんばかりに役人が教師を顎で使い、教育の名のもとに「教えてやっているのだ」と教師が子どもを上から抑えつけ、権利の名のもとに「来てやっているのだ」と学ぶことを放棄した餓鬼が集まる場所、それが学校である。それが日本の現状である。それぞれがそれぞれのやりかたで、他方ばかりか自身の首をも真綿で締めつけるように、崩壊の一途を辿っている。それが日本の教育現場である。陰湿さが売り物の、これこそ日本流のテロリズムに他ならないと思ったりもするのだが、どうであろうか。
Je suis sûre que, si c’était moi qui avais aimé cet homme-là, la fin de cette histoire avait été si différente… ― 2011/09/14 18:58:20

姫野カオルコ著
角川書店(角川グループパブリッシング/2003年)
本書が発売されたときに、書評を何かで読み、すごく読みたくなった。これは読まなければ。非常に強くそう思ったのを覚えている。ちなみに私は姫野の作品を一つも読んだことがなかったし、評判を聞いたこともなかったし、若いのかそうでないのか、作家としてのキャリアもまるで知らなかったし、今も知らない。『ツ、イ、ラ、ク』を読みたくなったといって、いきなり姫野カオルコとは誰ぞやと調べてみることもしなかった。
本書は人気作品なのか、図書館ではいつも貸し出し中だった。何が何でもどうしても読みたい本、読まなければならない本は予約を入れるが、本書についてはそれをしなかったので、たぶん当時の私には、いくら読みたいという気持ちがあっても予約するというアクションを起こすほどの熱意をこの小説にもつことはなかったのだろう。しかし私だって小説の書架を眺めるときはあるので、書架の「作家名ハ行」の棚に姫野カオルコの名を見つけると、『ツ、イ、ラ、ク』を思い出した。しかし『ツ、イ、ラ、ク』はいつも、なかった。しょうがない、他の作品を読むかな。……と、思ったことは一度もない。姫野カオルコという作家に関心があったわけではなかったから。
そのうち、私は『ツ、イ、ラ、ク』を忘れてしまっていた。書架に姫野の名を見つけても、(例によって『ツ、イ、ラ、ク』はなかったから)『ツ、イ、ラ、ク』を思い出すこともしなくなっていた。なぜあれほど読みたいと思ったのだろう。新刊書の書評なんてものは、あらすじを語っていてもネタばれするわけにはいかないし、作品にかんしてたいした情報を提供してくれるものではないのに。
ところが、最近になってようやく、我が図書館の常連組がようやく手放す気になったのか(笑)、『ツ、イ、ラ、ク』が書架にあったのである!
実は他の作家の名前と作品を探して「作家名ハ行」の棚を見ていたのだが、なんとそこに、しれっと、本書が並んでいたのである。あ、あったあーーーついらくーーーーーーっと(小さくだけど)叫んでいた私。
ためらうことなく貸出し手続きを済ませて家に持ち帰り、ずいぶん分厚い本だから長編小説なんだけど、がーーーーっと一気に読んでしまった。これがこの人の書きかたなのかどうか知らないが、語りの主体がコロコロ変わって見えるし、ところどころノンフィクション系筆致になるし、記号など駆使して字面をややこしくするし、正直いって、読んでいて、あまり快適さを感じる文章ではない。そんな回りくどい言いかたしなくても。そこでその説明必要なのか? それは説明しているようで実はしてないぞ。……などなど、はしたないけど心中で「ちっ」と舌打ちしたくなる箇所があまりにも多い。ところが、ヒロインの隼子というキャラクターがあまりに凛と立っていて、この子をめぐるさまざまなことが、次の展開をいい意味で予測させいい意味で裏切らないので、次はどうなる、やっぱそうなる、なるほどそう来たか、思ったとおりだ、てな具合に非常にテンポよく読まされてしまう。
私はなぜ、この小説を読みたいと思ったのか、それはけっきょくわからずじまいであった。8年前、本書の新刊当時、私はまだギリギリ(笑)30代だったが、ヒロインとその同級生たちは物語の終わりで34歳になっている。同級生たちはそれぞれに中学校時代を振り返ったりする。あんなにどうでもいいことに必死だった、夢中だった、些細なことに感動し、些細なことが許せなかった。そんな中学生の頃。読者は同じように郷愁を覚え、胸キュンとなる。作家の狙いはそこか? もし私がすんなりと30代の終わりにこれを読んでいたとしても、中学校時代に思いを馳せ胸キュンなんて、絶対ありえなかったと思う。私はその頃忙しすぎて(今もだけど)目の前の雑多な事どもに追われて雑多な事どもを追いかけて(今もだけど)、転職したり失恋したり(もうしてないよ)、同級生なんて眼中になかったし(もうそんなことないよ)。
私の中学校時代には、教師と恋に落ちるやつもいなかった(いたかもしれないけど若い教師がいなかったし)。ひどい噂を立ててポルノの切り抜きを黒板に貼るような奴もいなかった。中途半端な都会の中学校は色恋沙汰も非行も喧嘩も勉強も、イマイチぱっとしない集団だった。だけど私たちには私たちの青春がたしかにそこにはあったわけで、この5月に何年ぶりかの同窓会を経験した私は、亡くなった雅彦や、ちょっとおかしくなったという噂の慶子のことを抜きにしても、『ツ、イ、ラ、ク』を読んで、ああ、そうだったよね中学時代……と懐かしい心地よさに満たされたことは白状する。
でも、この小説のツボはそこではない。登場人物たちの、実に小学校2年生から中学校卒業までのストーリーが長編のほとんどを占める小説でありながら、これは読者を郷愁に誘う物語ではない。読者が本気で人を愛した記憶があるなら、この小説によってその記憶は呼び覚まされ体の中で脈打つはずだ。幾つのときかは関係がない。『ツ、イ、ラ、ク』は女子中学生と大学出たての教師との恋が描かれているのだが、中学時代に恋に落ちた経験がなければ感動する資格がない、のではない。恋に落ちる瞬間はいつでも誰にでも訪れる。その意外なきっかけ、意外なシチュエーション、お決まりの展開、お決まりの睦みごと、それは百人百様の色彩であるいはモノクロームで記憶に残っているものだが、それを見事に甦らせてくれるのが本書だ。
あのとき、たしかに私は墜落した。そう、あれから始まったんだ。
そんなことをつい、読みながらつぶやくのである。
Ca ne finit toujours pas... ― 2011/09/09 19:19:08

マイケル・モーパーゴ著、佐藤見果夢訳
評論社(2007年)
痛い小説だ。
第一次世界大戦のさなかに起こった本当にあったいくつかのエピソードを基にして書かれた物語。年端も行かない少年が、戦地に駆り出され、上官からは嫌がらせや拷問を受け、前線では苛酷な戦況に足を竦ませ……
第一次大戦は1914~1918年間続き、他の戦争の例に漏れず、人の心と大地を荒廃させた。舞台である英国は階級社会で、軍人や地主が大威張りで使用人をこき使い、胸三寸で解雇も配置換えもしたような時代。それでも戦争の影がまだ色濃くないうちは、そんないけすかない雇い主や、四角いアタマの教師、頑固で古臭いジイサンバアサン連中を、庶民や子どもはうまく出し抜いたりやり込めたりして、貧しくても知恵を使い、厚みのある暮らしをしていたのだった。
冒頭で主人公が、残された時間を、世界にひとつしかない宝石を握り締めるようにいとおしんでつぶやく。この冒頭で、まだ18歳にもならないこの少年を見舞う苛酷な運命を、読者はなんとなく想像することができる。そして、1行空けて、主人公の少年は、辛いことも悲しいことも驚いたこともあったけれど、キラキラと輝きに満ちていた幼少時代を少しずつ回想していく。文体は、本書が児童文学として分類されていることからもわかるが平易である。情景描写は童話的で、豊かな森林や、古い聖堂の威容など、絵画のように読者の目に立ち上がる。時間の流れもゆったりしていて、登場する子どもたちは無邪気で生意気である。
父親が死に、主人公はその死の原因が自分にあると自己を苛んでいる。その心の底の、彼にとっては小さくないこぶが、母や、兄や、兄の恋人との関係に少し影を落としたりもする。
母子家庭となった家では生活に困窮し、兄弟は領主の敷地で魚や農作物を盗んだりもする。それでこっぴどく罰せられる。だがそうした、そのときはえげつないように見えるひとつひとつの事件が、少年たちのハートをけっきょくは打たれ強い頑健なものにしていった。彼らの強さが家にささやかな幸福をもたらすかに見えたのだが。
ドイツ軍が侵攻し、若い兵士たちが次々と駆り出されていく。十分な訓練を受けていないまだ子どものような兵士たち。彼らの敵はドイツ兵よりもまず自分の恐怖心だ。臆病風に吹かれて逃げ出したが最後、そんな兵士は必ず捕らえられて自国の軍事裁判にかけられ有無を言わさず銃殺刑に処せられる。
主人公兄弟の上官は狂気に走った軍曹で、作戦も何もなく闇雲な突撃を命令する。ただそこにいるだけで必ず殺されるのに……。
物語の最後のほうで、主人公は父の死にかんする心の傷を兄に打ち明ける。だが兄は笑って、母さんも俺も知ってたよという。でもお前のせいじゃないよ、断じて違うよと。
第一次大戦のとき、300人近くのイギリス兵士が脱走ないし臆病行為により銃殺刑に処せられた。そのうちの2人は見張り番をしていて居眠りしていたことが理由だったという。
本書はそうした臆病行為の罪で銃殺刑になった若いイギリス兵の実話を基に、書かれた。けっきょくこの戦争では数百万人の戦死者が出たのだが、その一人一人にどのような人生の物語があったのか、それを掘り出して語り継ぐ試みは、日本と同様、英国でも遅々として進んではいないようである。
心臓をわしづかみにされ、捻り潰されるかと思うほど、痛い小説だ。中高生に読んでほしい。
Les jeunes sont comme des fruits verts, mais ils sont tres forts... ― 2011/05/17 20:14:02

草野たき著
ポプラ社 (2009年)
もしかして短編ならけっこう面白いかも、と思って草野たきに再チャレンジしたのが本書。これは、なかなかに痛い毎日を送っている少女がその「逆境」にめげず、負けず、耐えるばかりでなく「反撃」に出るストーリーを5人の少女分、5編をまとめた短編集。物語のほとんどを、一人称で少女自身が語る自分自身の葛藤の日々が占め、そして、反撃に出てなんらかの「成果」を得た数年後、イキイキと自分らしく生きる当の主人公を、今度は三人称でまとめて締めくくる、といった体裁。その締めくくりの部分に出てくる主人公の友人が、次の短編の主人公になる、というふうに連なっている。
5つの短編のあらすじは検索かければけっこう出てくるのでもう書かない。
ポプラ社サイトでの紹介ページはここ。
http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80010230
前エントリで挙げた『メジルシ』を思わせる、(私にとって)草野たきらしい流れは「いつかふたりで」。『メジルシ』の後半のくだりのように、母と娘のちょっと説明的な会話が残念な感じ。この一編はそういうわけで結末も早くに見えてしまった。
でもそれはあまり問題ではない。どの少女も基本的には真面目に精一杯の努力をして、毎日をよりよくしたいと思いながら生きている。努力の方向が少しずれてる、勘違いしてる、というところが悲しくもあり笑わせるところでもある。何もかも思いどおりではないにしても、結構いいカタチで大人への階段を上っている、そのことの窺える結末が読後感をよいものにする。
とてもとても僭越なことを申し上げるけれど、『メジルシ』よりは数段いい。上達したじゃない草野さん、という感じ。読者として想定しているのは中学生だが、幅広く見積もれば小学校6年生から高校1年生までイケるだろう。『メジルシ』は部分的に冗長で主人公の振る舞いにでき過ぎの感があったが、本書の短編はそれぞれ短編として必要十分、冗長さはなく、複雑な物語でもなく、まさにウチのお嬢さんあたりにうってつけである。というわけでこれもヤツに薦めてみよう。
Et voilà ce que j'avais pensé depuis... ― 2011/05/15 19:18:05

草野たき著
講談社(2008年)
中学3年生の双葉(ふたば)。卒業後は全寮制の高校に進学する。それと同時に両親は離婚することが決まっている。三人別々の暮らしが始まるのだが、双葉は取り乱さず傷つかず冷静に受け入れている。両親の離婚は、修羅場があったわけではない。母親・美樹の、大学院へ行ってじっくり勉強したいという一方的な希望に起因する。だからって、なぜ離婚までしなければならないのか皆目わからない父親・健一。けれど、健一は美樹を愛するが故に同意する。そして最後の家族旅行を提案、計画し、北海道にでかけることになった。
絵に描いたような善人だが、今よく使われる言い方をすれば「空気の読めない」父の健一。いつも冷静かつ不愉快そうな顔をしていて、双葉と目を合わそうとしない母の美樹。
双葉には手に火傷の痕があり、幼い頃に美樹の不注意から負った傷だということになっている。が、双葉は、なぜなのか自分でもわからないが、真相は別にあるとどこかで思っている。普段の美樹の態度、時折疼く自身の心の奥底……ただ、気がかりのような、不安のような、言葉にはできないもやもやした納得できない感覚を抱えたまま、双葉はそれでもつねに「大人」でいようとし、ものわかりのよい一人娘として振る舞ってきた。そのことに誇りすら感じて今まで生きてきた。だから離婚だってどうってことない。自分自身も、寮生活を通して自立し、自分の道を歩むのだから。
家族旅行なんて今さら鬱陶しいだけ、と双葉は思ったし、どうやら美樹も同様だ。健一だけが無理矢理はしゃいでいる。双葉は親友や彼氏とときどきメールを交わし合って気を紛らす。
しかし、ありきたりな観光旅行とはいえ、非日常に身を置いたことで家族は真に次のページをめくることになる。
一見よくあるよさげな家族は、実はバラバラ。かっこいい理由で離婚を認め合う進歩的なメンバーである振りをしつつ、実は自分に嘘をついたままごまかしたまま仮面をかぶり続けることに苦しんでいる。『メジルシ』が描くのは、けっこう近年使い古されたテーマ「家族」の、ある再生のかたちである。小説の中では再生には至らないが、辛い記憶の目印だったものが再出発の誓いの目印に変わろうとするさまを描いた小説であるとでもいおうか。
というと、とってもいい小説のようだけど、やはりそこはヤングアダルトに分類される作品なので、説明しすぎるというか、わかりやすすぎるというか。
昨今の、本をあまり読まない、深読みできないティーンエイジャーの傾向を汲んでいるのだろうかと思わせるほど、手取り足取りの描写ですいすいすいと読み進ませ、なんだかちょっともったいない。読み手を読解力発展途上中のティーンズと仮定するならなおさら、もっと想像力をかき立てるような表現で、迷わせたり立ち止まらせたり、悩ませたりしながら引っ張ってほしいなと思った。
「家族」はよくあるありきたりなテーマとはいえ、切り口次第で面白いものになる。本書も、目のつけどころはとてもよいと思う。そして、作家はきっと元来筆力のある人である。思うに、これは編集サイドの余計なおせっかいの「成果」ではないか。草野さん、もっとていねいに、もっとわかりやすく、こんなふうにあんなふうに書かなくちゃ、中高生は読んでくれませんよ。とかゆってないか?
娘が中一の時に『ハーフ』を借りてきて、借りてきたままいっこうに読んでいなかったので横から失敬してしゅしゅっと読んだことがある。その時も、面白いことをネタにしたなあと感心しつつよくわかるように描かれすぎているために残念な出来映えだなと感じたことを覚えている。
だが、文字どおりヤングアダルト(っていったいどのへんの子どもたち?)には受けているのだろう、順調に次々と作品を発表し、いずれの単行本も好調らしい。
『メジルシ』は図書館で偶然見かけて、表紙の飛行機が可愛いので借りてみた本だった。ずいぶん前に読んだのだが、この週末、娘と「本をもっと読めー」「読んでるやんダンスマガジン」「そりゃ本とちゃうやろ雑誌っつーの」「雑誌でも字が書いてあるやん」「その字をオメーは一字も読んでへんやろが写真ばっか見て」「ぐ」……
というような会話の挙げ句、草野たきならオメーにも読めるからその辺から始めろ、という話になって『メジルシ』を思い出したのであった。
謙虚な気持ちでレッスンすることと、自覚と自信をもつこと ― 2010/05/10 18:38:40
ルーマ・ゴッデン著 渡辺南都子訳
偕成社(1996年)
本書と、同じ著者による『バレエダンサー』(上下)は、娘がバレエを習い始めた頃にバレエとは何たるかを知るために熟読したものである。これらの物語によってバレエの何たるかがすべてわかるわけではもちろんないが、とにかく、当時は、バレエに関するいちばんまともな本ってもしかして山岸涼子の『アラベスク』か有吉京子の『SWAN 白鳥』だけじゃないの、バレエに関するまともな文献なんてないじゃんかと思っていたので、ゴッデンのこの2作は、バレエについてその世界を垣間見るための絶好の参考書であったのだ。
少し知識がついてくると、ダンス関連の書物や雑誌がやたらあることに気づいていきなり目は開かれるのだけれど、パッと見、雲の上の存在のダンサーをただ眺めるだけの雑誌、または、ぶりぶりひらひらお嬢様御用達マガジン、にしか見えないような体裁だったりするのでなかなか手が出ず、読むべきところをピンポイントでしっかり読み込めばそれなりに参考になるのだということに気づくまで、相当時間を要したりするのであった。
ともかくそういう事情で読んだゴッデンの本書だが、プロダンサーの世界は誰もが望んで入れる場所ではない、ということを明快に語っているといっていい。それはたしかである。努力がものを(まったく言わないわけではないが)言う世界ではない。もって生まれた素質と才能が98%、親や周囲の審美眼と鑑識眼と投資が1%、本人の努力1%。あからさまにそう書かれているわけではないが、結局はそういうことねとわかるような物語になっている。ほんとうは、作家の狙いはダンサーを夢見る子どもたちを勇気づけることにあっただろうと思われるが、できるだけ現実味を帯びさせようと工夫した結果、読み手によっては逆に「ああ、私には手の届かないところなのね」と打ちひしがれてしまうこともあろうかと思われる。
そんなわけで、娘がバレエを習い始めた頃、姿勢がよくなればいいわ、ほどほどの頃合いで辞めさせなくちゃと思っていたのだが、だから他の習い事にも目を向けさせたりしたのだが、意に反してバレエがいちばん好きになりバレエ以外はすべて辞めてしまって、バレエがいっちゃん大事やねんウチは、と口にするようになってしまって現在に至る。
物語は、シャーロットという10歳の少女が英国王立バレエ学校に入ってジュニアの主役を射止め立派に踊りきるところまでが描かれている。
シャーロットの亡き母は優れたダンサーだった。今、母の姉である「おばちゃん」と一緒に暮らしている。生活は貧しく、昼となく夜となく、休む間もなく働きづめのおばちゃんを助けて、シャーロットは学校へ行きながら家事一切をこなす。そしてバレエ教室へも通う。
彼女が通うバレエ教室に、王立バレエ学校からオーディションの打診が来て受験することになり、猛レッスンの日々が始まる。
落ち込んだり、レッスン教師をクサらせたり、何かとたいへんだったが合格して入学、入寮するシャーロット。他の生徒から意地悪されたり、残してきた愛犬(この子犬の存在が話をややこしくしている)が心配だったりと、何かと話はさまざまな要素を絡めつけもつれさせて展開していく。が、高慢な同期生アイリーンが退学させられたくだりから、物語のゴールははっきり見える。すべてはこの上ないほどハッピーなエンディングへと収束する。
読み取るべきは、シャーロットが謙虚な性格に描かれていて、とても自分なんかダンサーの器じゃないと思っていたのがだんだんと選ばれた人間としての自覚と自信をもつようになる、その成長のさまであろう。容姿に恵まれ立居振舞にも華のあるアイリーンが、自惚れから基本レッスンを怠ったために上達が滞り、学校から退去させられるのと対照をなしている。謙虚な気持ちを失わず、自分の身体の声を聴くことに徹するシャーロットに女神が微笑む。このことは、死にもの狂いの練習とか、たゆまぬ努力、というものとは少し違う。いくらやってもダメなものはダメで、するべき人がするべき時にするべきことをした時にのみ、将来のプリマは誕生するのである。
原文のスタイルを尊重した翻訳文は、雰囲気を余すところなく伝えているようだが、若干読みづらさをともなう。たとえば、いま語られているのがレッスン場面だとすると、そこに前触れもなく、レッスン室にはいない第三者の過去の会話が挿入されたり、突然場面転換したりする。一般小説ならべつに普通の展開だろうが、児童書であるので、さらには翻訳文体であるので、もうちょっとだけ親切な編集ができていればと思う。主人公の年齢からしても、小学校中学年あたりからをターゲットにしたいところだろうが(実際英国ではそうなんだろうけれど)、翻訳ものを相当読み慣れていて、なおかつ小学校高学年以上、がせいぜいではないか。ちなみに、ウチの子は中学生になってから、返却期限を超過して読んでいたが、読み切れなくてギブアップ。いわく「どうでもいい話題が多すぎる」。いや、ルポルタージュじゃなくて小説だからこれでいいんだよ。でも、もう少しだけ日本の小説らしくなっていればなあ、と思わなくもなかった。
シャーロットのおばちゃんは、シャーロットの通うバレエ教室の主宰団体である劇場の衣装係として勤めており、そのためシャーロットはほとんどレッスン料を払わなくて済んでいる。彼女の母親がかつてその劇場を賑わしたダンサーであったことも関係している。そして王立学校への入学である。シャーロットは貧しいが、バレエに関してほとんど費用がかかっていないのである。反対に彼女の周囲は、膨大な費用をかけてレッスンを積み合格した子女たちばかりで、親が多国籍企業のトップだったり、国境を越えて入学していたり、帰省先はお城だったりする。謙虚で控えめなシャーロットの存在は、読み手によっては励ましになるだろうが、先述したとおり、やはり例外というか虚構というか、御伽噺に近いものだと思わせるのがちょっと悲しい。
ちなみにウチの子の場合、バレエのレッスンにかかる費用はいまのとこ年間で約60~70万円程度である。最初からそうだったわけではなくて、習い始めの頃はその半分ぐらいだった。3、4年前に跳ね上がって上昇中なのだが、これに、他の生徒さんのように臨時講習や教室外レッスンなどをこまめに受講したり、レッスン着やシューズ、ポワント(トウシューズ)をどんどん新調していくと、ぽんぽんと10万単位で積み上がっていく。だから60~70万円というのはこの世界ではけっして高くはなく、とてもリーズナブルに過ごせているはずである。しかし、なんといっても親は年収が250万円に満たないこの私ひとりである。何かにつけて私がぴいぴい弱音を吐くのも無理ないということをわかっていただけるであろうか。で、である。娘がさらにバレリーナの道を邁進するとなったらいったいこの私にどうしろというのか。
「さなぎちゃんは踊れる子です。お母さん、身体を大事にしてしっかりバシバシ働いてください」
「お母さんに苦労かけて悪いからもうバレエ辞めよう、と思うようでは見込みがありません。お母さんに苦労かけるけどそれでも私はやる、というある意味非情さをもたないと、あるいは誰が自分のためにどれだけ力を尽くしていようが知ーらない、というような無頓着さ、そういう人でなければこの道では大成しません」
中一の時にいただいた、バレエ教室の先生からのお言葉である。
はいはい、働いておりますですよ(苦笑)。
しかし、ウチの子は非情でも無頓着でもないから、大成せんということだ。
家庭訪問のあった日、進路ネタで嶋先生と話したことを娘に言うと彼女はけらけら笑ったあと真顔になって、
「女子プロ野球チームに入団、ていう手もあるやんな。ウチ、入れる自信あるで。知ってる? 年棒200万円やって。お母さんとええ勝負」
……。あのなあ。
800? ― 2010/02/04 19:27:58
川島誠著
角川文庫(2002年)
対照的な二人の高校生が陸上競技の800mという種目で競う青春小説。
……とかなんとか、たぶんそのような紹介のされ方をしていたのをどこかで見たのであろう。陸上競技の800m走の選手で来年度は中3になるので全国大会出場目指して勝負に出る(笑)我が家のお嬢さんがこの『800』という小説を読みたい読みたいとずっとうるさかったのである。
「読んだらええやん」
「学校の図書館にないねん」
「ふうん」
「ふうん、じゃなくて。今度お母さんいつ図書館行くの」
「行かない」
「行ってよ」
「リクエストしてる本が来たよって電話があったら行くけど。お母さん忙しいもん。自分で行きなさいよ」
「むう~。さなぎも時間ないもん」
彼女に時間がないというのは本当で、土日朝から晩まで走るか踊るかしていて食べる時間と寝る時間の確保だけでひいひいゆっている。
私がリクエストしてる本というのは、例のダリ本(笑)だったり、3000円も4000円もするみすず書房の本だったりするので、おそらく新規購入の手続きになるので時間がかかると思われた。ま、可愛い娘の頼みだから用事がなくても図書館に行って『800』とやらを探そうか、と一度は思ったのだが、そうするうちに「ご予約の本が届きました」という図書館からの電話が入ったのであった。念のため『800』が行きつけの図書館の書架にあるかどうかを検索したら、ない。市内の、ウチからいちばん遠い公立図書館にある。なんだ、また取り寄せリクエストをしなくちゃならない。でも、あることがわかっているからすぐに到着するだろう、しかもこんなの誰も読んでいないに違いないから貸し出し中でもないはずだと思って、先に予約した本(ダリ本でした~♪)を取りにいくついでに予約した。
すると3日後だったか4日後だったかに「ご予約の本が届きました」と電話。たぶん『800』だろうと思って取りにいくと、はたして『800』だった。カウンターにダリ本を返し(だって読む必要ないし、あたし。市立図書館さんゴメンね)、取り替えるようにして借りた『800』をその場でぱらぱらと開いてみる。
書き出しの数行は、まあええ感じである。
しかし、2ページ目、3ページ目と進むにしたがって、んーこれはさなぎが期待している内容とはたぶん違うぞ、ということが早くも判明してしまう。
佐藤さんの『一瞬の風になれ』、あれも私はあまり好きではないのだが(言葉遣いが好みでない)、何というか、陸上競技に関する記述、スポーツを直接描いたシーンというものがもっともっと多かったと記憶している。練習メニューのこと、記録会のこと、合宿のこと、重要な試合のこと。
『800』にもそれらは出てくるが、はっきり申し上げて圧倒的に少なくて、800m走という競技の魅力が伝わってこない。800mはトラック2周、だから「Two lap runners」という副題がついている。トラックを何周も走る1500や3000とは違い、また直線部分のみや半周だけする100や200でもない、800という競技の面白さを描きたい……とは思えないのだ。走るシーンが少なすぎる。「800」は単なるネタ、100や長距離だとありきたりだから800を採用しただけなのかと思えて仕方がない。
そんなふうに思えたのは、たぶん私が800に打ち込む中学生の親だからだろう。
あらためてこの作品についての評価をオンライン書店の書き込みや個人ブログなどを検索してみると、すべからく好意的で、絶賛されていたりする。だが、面白いという読者はたいていが800mという競技を知らない。面白くないという評価する読者は陸上競技の経験者だったり、愛好者だったり、実際800mに取り組んだことのある人だったり。
たしかに知らない世界については想像が膨らむし、その一方、事実関係については無頓着でいられるものね。
本書を借りたのは1月最後の土曜日で、この日は早朝から、ウチのお嬢さんは選抜合宿に出かけてしまった。翌日夕方まで帰ってこないので、鬼の居ぬ間の大掃除をしようと思っていた(だって去年は全然掃除できなかったのよ)のだが、決意をすぐ翻意する私は(笑)掃除は適当に手抜きすることにして合間に本書を読みきってしまった。
帰宅した娘はさっそく『800』を手にする。
「それ、もうお母さん全部読んだよ」
「面白かった?」
「ううん」
「やっぱり。そういうと思った。お母さんが面白ないっていうてもさなぎには面白いかもしれんで」
「うん、面白いかも。でもなー」
「でも、何?」
「〈親指探し〉みたいにわかりやすいことないで」
「全然ジャンルが違うやんか」
「それに、あんまり陸上のこと書いてへん」
「ええーっそれ意味ないやん」
「高校生の青春小説模擬恋愛付き、という感じ」
「なーんや」
かなりがっかりした様子ながら、それでもすすすすっと読み進む娘。
「ハイペースで読んでますね」
「うん。だって、陸上に関係ないと思ったら飛ばしてるし」
ははは(苦笑)。そうですか。
たしかに、中高生の性体験シーンばっかり出てくるから、まだまだそっちには関心が向かないさなぎにはリアリティがなさ過ぎるであろう。
この小説には主人公が二人いて、この二人の一人称によって物語は語られる。その語りかたが非常に対照的であるなどなかなか巧妙なつくりである。読み手に目の前で話しかけるような文体なのだが、二人の性格をよくにじませたものになっている。冒頭はその二人が出場する中学陸上の市大会のシーンだ。第1章で語り始めた、ちょっとチンピラな感じの少年は決勝で2位に入る。第2章で語り始めるまじめな陸上少年が1位。まずこのようにそれぞれが1位、2位を走って800mという競技を紹介したあと、第3章で、2着の少年が「オレの名前は中沢」と名乗り、第4章で「僕は広瀬」と1着の少年が名乗る。というふうに、彼ら二人は交互にナレーターとして登場する。それぞれの語りを通して、人物の性格、生活ぶり、環境などを読者は徐々に知ることになる。
江國香織の『きらきらひかる』が、たしか、こういう構成だったが、はからずも、文庫版には江國センセイの「絶賛解説」が巻末についている。先にそれを読んでしまうと本編を読む気しなくなるに決まっているので我慢し(笑)、小説を読んでから読みました。ハイ、これにはかなりげんなりしました。以上、蛇足。
中沢はテキ屋系ヤクザの次男で、家は殺風景な工業地域、中学卒業前から同級生と寝ていて、やがてその姉とも寝るようになるというような、ヤリまくりたいタイプの女好き。体が大きくて中学時代はバスケットボール選手。かたや広瀬は海が見えるハイソな(たぶん)街に住む。中高一貫校で正しく陸上競技に打ち込み、800mという競技以外には何も興味を持とうとせず、その語り口から頭脳明晰で冷静な理論派であることが窺える。
その二人が高校生になり、強化合宿で出会う。もしも競技を描くことに主眼を置いた小説なら、彼らにもっとライバル意識をもたせて、練習に励みしのぎを削るシーンを増やすのが王道なのだろう。しかし著者はそうせずに、それぞれのガールフレンドとの性行為の描写だとか、強化合宿で出会ったなかなかイカス女子ハードル選手との絡みや嫉妬の感情などに行を割く。おませな広瀬の妹に重要な位置を占めさせたり、さらには、「女の子に興味なし」然とした広瀬の意外な恋愛経験が明かされて、なかなかに手が込んでいて、それはそれで展開のしかたとしてはダメなわけではない。
単行本として発行されたのは1992年だそうで、その時期に日本でどの程度陸上競技がメジャーだったかもう思い出せないけど、いずれにしても、国内大会の中継や報道は、同じ陸上でも駅伝やマラソンとは扱いに雲泥の差があるのは今も昔も同じだ。これを原作に映画まで製作された(1994年)らしいが、私はまったく記憶にない。ごめんなさい。本書や映画をきっかけに800mという競技に少しは光が当たったかどうか、それが云々されたかどうかということすらも、ぜんぜん聞かなかった。
《ぼくは八〇〇メートルという距離を走ることが気に入っている。
それは、不思議な長さだ。
(中略)五〇〇〇メートルなら、ともかく持久力。中高生にとって、やっぱり五キロを速く走るっていうのは、スタミナが勝負。
その点、八〇〇メートルは違う。短距離並みのスピードで、四〇〇メートル・トラックを二周(TWO LAPS)する。しかも、コースはひとりひとり分かれてなくてオープンだから、駆け引きがある。勝とうと思ったら、かなりの速さで走りながら、緩急をつけなきゃならない。
八〇〇っていう長さを決めた人は天才だって、時々ぼくは感じる。》
《中距離っていったけど、アメリカでは八〇〇までをDASHと呼んで、それ以上をRUNと区別している。つまり、八〇〇までは短距離の扱い。八〇〇メートルを走ることが、どんなに楽しくて苦しくて特別なことなのか、少しはわかってもらえるかな?》
――という、広瀬の語るくだりがある。このほかにも、いくつかの箇所で、800特有のレース展開の仕方などが書かれないわけではないが、「この競技への理解が進んで関心の高まることを期待する」という観点に立ったときに、あまりにも物足りなく、情報不足である。ま、たぶん、著者の目的はそれではなかったのだ。彼はただ、800を題材のひとつにしただけなのだ。
陸上部でなかったら、あるいは中途半端な期待や予備知識なしに読めば、中高生には面白いのであろう。おそらく思春期御用達のワクドキストーリーとしてこれからも支持され続けるであろう。
で、ウチのお嬢さんだが、ときどき「へえ、ふうん」とつぶやきながら読んでいた。それは広瀬が練習メニューに取り入れている呼吸法だとか、800mではスタートが他の距離走とちょっと異なる点だとかを説明している箇所だったようである。女の子と「バコバコやってたわけよ」としか語らない中沢の章はほとんど飛ばしていたようだ(笑)。
期待はずれだったね。
800mという種目で活躍する日本人ランナーの登場を待つしかないさ。そんなことがあれば、上手な作家センセイたちが素晴しい青春800m走小説を書いてくれる。きっと。
んなわけで、とっとと『800』を手から離してしまったさなぎは、『ぎぶそん』という中学生バンドを主人公にした小説の単行本を新たに学校で借りてきた。これはまたこれで、遠そうな話である……。
※800字のお話だと思った方がいらしたら、失礼しました♪
一年の計は元旦にあり。こういう仕事がしたいっ!と強く思いました。 ― 2010/01/06 20:46:26
ジークフリート・レンツ著 松永美穂訳
新潮クレスト・ブックス(2003年)
2010年が明けました。
おめでとうございます。
本年も当ブログをご贔屓に、よろしくお願い申し上げます。
新年早々「遺品」だなんて縁起でもない。
そう思われてもしかたないのだが、暮れに、読みたい本が山のようにあったので、しかも高価なので、図書館に予約リクエストを大量にかけに行ったのだったが、そのときいつもの癖で外国文学の書架をぶらついていて、タイトルが目について引っ張り出した本がこれなのである。「遺品」が目についたのではなく「アルネ」が目についたのである。アルネって男の子? 女の子? ただそんな疑問が浮かび、勢いだけで手に取ったのである。うーむ自分にフィットするよい本との出会いはこんなもんなんだなあ、と読み始めて唸ってしまった。私好みのしっとり小説。マンガレリの「おわりの雪」と印象が似ている。
アルネは男の子である。12歳のとき、父親が一家無理心中を図ったが、アルネだけ蘇生術を施され生き残った。父親の友人宅に引き取られ新しい生活を始める。しかし。
《両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。》
物語はこの一文で始まる。
つまり、冒頭からアルネはもう死んだことがわかっているのだ。
本を手に取り、裏表紙や見返しを眺めれば、アルネが一家心中の生き残りであるという「予習」はできるのだが、読者はこの冒頭で「え、生き残ったんじゃなかったの?」と戸惑うことになる。
物語の書き出しをもう一度。
《両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。両親はまるまる一か月、何もしないでいた。困惑と、打ち砕かれた希望の一か月。そしてついにある夜、そろそろ彼の遺品を集めて箱に入れてもいいときなんじゃないかとぼくに尋ねたのだが、その口調は、ぼくへの依頼と理解せざるをえなかった。》
謎だらけ。穏やかな文体は、しかし読者の好奇心を喚起し、「ぼく」の妙に落ち着いた様子にときにいらだちも感じさせながら、最後まで、つまり「ぼく」の語りの最後まで、ぐいぐいと引っ張ってゆく。
「ぼく」は、アルネが引き取られた家の長男ハンス。アルネ12歳に対して当時17歳だった。アルネはこのハンスと部屋を共有する。辛い経験をしたアルネをハンスは当然温かく迎えようとする。それは最初は同情からだが、やがてアルネの聡明さや透徹な精神性に尊敬を覚えるようになる。十代の頃の五歳違いは大きい。アルネもハンスを兄のように慕い、信頼する。飛び級を推奨されるほどの、アルネの類い稀な明晰な頭脳にも、またガラスのように脆そうな精神にも、ハンスは寛容になれる。しかしハンスの弟、妹たちは、アルネと歳が近いだけにアルネをやすやすと受け容れることはできなかった。死の淵から蘇ったアルネには、どこか現実離れした言動がある。ちょっぴり不良ぶりっ子の弟、妹たちは「アイツとは話が合わない」で済ませてしまい、アルネを仲間に入れようとはしなかった。ハンス、ハンスたちの両親、両親が雇う警備員、港の人々、学校の教師たち。大人は皆アルネを評価し、優しいまなざしを向けるのだが、アルネは、歳の近いこの弟、妹たちともっと親密になりたかったのだ。ただ、それが願いだったのだが。
引用したように、物語は「ぼく」ハンスがアルネと過ごした三年間を回想するかたちで進む。部屋に残された遺品をひとつずつ手に取り、その品にまつわる思い出を語る。ときおり、「ああ、アルネ、きみは……」と亡き人に呼びかけながら。遺品を整理するハンスの部屋には、父や弟、妹たちが訪れて、しばしアルネについて語り、そうしてまた部屋を出てゆく。最後にもういちど弟がやってきて、兄が片付けかけていた品をひとつずつまた取り出して、もとの位置に戻していく。外された古い海図をまたピンで壁に留め、埃をかぶっていた読みかけの本は埃をぬぐってまたベッドサイドに置く。部屋はまたアルネがいたときのようになった。兄と弟はそのとき初めてアルネへの愛情を共有する。アルネに本当に戻ってきてほしいという気持ちを分かち合う。しかし、それはもう叶わない。叶わないとわかっているし、それは悲しすぎるのだけれども、ただその場所の美しさだけが読む者の心に沁みてゆく。
そう、読後感は「美しかった」に尽きる。悲しいけれど穏やかな語り口調に温かな気持ちになるとか、少年の孤独な魂に心を揺さぶられるとか、いろいろ評価のしかたがあるようなのだが、どれも100%賛同しかねる。ハンスはある意味、できすぎのお兄さんで、弟や妹はありがちな不良。アルネは勉強もできて心優しく、そしてか弱い天使のよう。突拍子でもなんでもない人物設定ながら、美しいと感じさせるのは、ひとえに構成と文体の力だろう。私は港町には縁がないし、船舶用語もぴんと来ない。であっても、北ドイツのその場景とハンスとアルネの部屋の様子を自分なりに想像し、絵のように思い浮かべながら、筋を追うことができる。ときどき、それは難しい。ときどき、船の構造や港のあらましがわかっていないと何が起こっているのか理解に苦しむことがある。ときどき、なぜアルネが顔を歪めたのか、アルネはなぜそんな行動に出るのか、なぜ、ハンスはそんなに何もかもわかっているのか、あるいはわかった振りして受けとめているだけなのか、読み取れなくて苦々しい気持ちになる。
しかし小説は、それぐらいわかりにくさを伴うほうが、いい。昨今わかりやすいものが多すぎるので、なおそう思う。
年頭早々にこの本を読み終えて、ああ、こんな仕事がしたいと思った。訳者の松永さんに喝采である。もうすでに著名な翻訳家さんだが、これまで不思議と読んだことがなかった。もう一度訳書を読みたいと思わせる、数少ない訳者さんにまた出会えたという気持ちである。何が素晴しいといって、12歳で一家心中の生き残りという目に遭い、15歳でその生涯を終えてしまうというアルネのことを、可哀想だとは思えないのが素晴しいのである。可哀想なのではなく、ハンスたち一家のそれぞれの心に風穴を空け、そこに、いずれは融ける氷を嵌めていったかのような、アルネのいた三年間はそんなふうにして過ぎ去った、ただそれだけなのである。氷が解ければハンスたちはアルネのことを美しい思い出として語り合うのだろう。読み終えた読者がたった今、美しかったと感じているように。そして、余計なことを加えれば、そのときハンス一家の絆はさらに強まっているのだろう、ということも示唆している(が、それはどうでもよい)。
私の拙い文章では、この小説の何がそんなにいいのかご理解いただけないと思うが、実をいうと絶賛しているのである。ぜひ読んでほしい一冊である。
***
暮れは21日でブログを休んじゃったので、その後の経過をざっと。
12/22 冬至だったので柚子風呂を楽しみました。といっても本物の柚子はもったいないので「柚子風呂入浴剤」なるものを母が買ってきました。香りはイマイチでした(笑)
12/23 一足早くクリスマス。今年はババ母娘ともに余裕がなく、ケーキは市販のシンプルなロールケーキに生クリームを飾り苺を乗せただけ。娘へのクリスマスプレゼントを渡しました(2010年のスケジュール手帳。そんなものをほしがるようになったんですな)
12/24 娘の中学校はインフル休校が祟って25日まで授業。我が社はインフルに祟られてないけどゴリゴリ仕事。だけど娘のセーターが編みあがる!(2年越し!)
12/25 クリスマスの朝。サンタクロースはついに来ませんでした。娘は足を痛めているのでコーチ兄さんに連れられて、夜、医者へ。翌日から合宿なので帰宅後荷物の用意。私は連日の遠方日帰り取材で疲労がピーク。
12/26 娘、2泊3日の合宿へ出発。年内ギリまで営業なのでこの土日で少しでも掃除を進めなきゃと思うがしんどくて、無理。
12/27 上賀茂の手づくり市へ出かけるが、おめあての昆布屋さんや柚子を売ってるお店がなく、ちょっとしょんぼり。でもひいきのタルト屋さんは出てたので木の実のタルトをひとつ買い、ダリ本を持って弟宅へ。
12/28 昨冬パリに帰ってしまった友達のクロディーヌからもらった手袋(おさがり)を愛用していたのだが指先が破れてしまう。ので、手袋編むぞ、と決心する。娘、合宿から帰る。非常に楽しかったようである(笑)
12/29 仕事納め。最後に経営陣から来年度はもっと悪くなるから覚悟しといてねなんて話を聞かされる。冗談でしょう。娘も部活納め。
12/30 愛媛の友達めぐちゃんから今年もまたミカンが届く。わーい! さて大掃除。正月飾りなどの買出し。こたつを出して、ミカンを置いて(笑)家の中が冬の風景に。そのこたつで13年ぶり(!)に年賀状を書く。
12/31 娘はばあちゃんを手伝って重詰め。私は掃除終了(途中だけどやめた。笑)。クロディーヌが十日間の日本旅行に来ているのでカフェで談笑。帰宅して、また商店街へ出かけ葉牡丹を買い、寄せ植えして千代紙と水引で作った飾りを鉢に指す(by娘)。これを、玄関に置いた金屏風の前にセッティング。夜は恒例のおけら詣りに八坂神社へ。少し早かったので火入れから観ることができた。これも恒例の甘納豆を買って帰る。納豆は食べられないけど甘納豆は好きな私。さらに恒例のロンドン焼を母へのお土産に買う。ビデオ録画しておいた紅白を観る。
1/1 町内会の互礼会へ。町内のおっさんたちが集まって飲む元旦恒例の行事。新年の挨拶を一気にやってしまうわけである。今年は役員なので呼ばれちゃいました。いちおう紅一点。午後、初詣にいく。今年は(毎年行き先を変えているのである)娘たち陸上部員がよくトレーニングをしている吉田神社へ。全国大会へいけますように、と彼女は絵馬に書きました。
1/2 届く年賀状を眺めてにやついたり、ミカンを食べて寝転んだり。娘は書き初めに奮闘。夜は大学時代のダチどもと新年会。娘を連れていくがダチどもはR指定お構いなしの大爆走(笑)
1/3 弟一家が来て墓参り。おせちをたらふく食べ、カードゲームボードゲーム百人一首と興じて解散。
1/4 娘は部活始め。私は彼女の帰りを待って、一緒に梅田へ。娘のポワントをいつもとは違う店で試し買い。地下街で娘と何年ぶりかでプリクラ。失敗(爆)
1/5 正月気分もおしまい。数か月前から痛むヒジを診てもらう。また不治の病が増えた。「テニス肘」(爆)。注射をしてもらったが、神経が覚醒したようでなお痛い。慢性化しているのでストレッチして徐々に緩和するしかしょうがないとのこと。
で、今日から娘もガッコ、あたしもカイシャ。いい年になりますように!!!