C'est rigolot, l'histoire des ados ! ― 2011/11/15 19:21:30
『空色メモリ』
越谷オサム著
東京創元社(2009年)
いたってありきたりな高校生たちの、日常のありがちなひと騒動をユーモラスに描いた学園ミステリーである。けっこう面白い。何でも読んでみるもんだなあ、とつくづく思う今日この頃。この越谷さんという書き手のことも、私はぜんぜん知らなかった。ノリのいい筆致で、とても人気があるようだ。本書も、主人公の「桶井陸」という少年が軽妙な語り口でストーリーを引っ張っていく。語りは軽妙だが、彼は90キロを超えるおデブさんで、口の悪いクラスメートからはブーちゃんと呼ばれていたぶられている。彼が自身を形容するとき、読者はたしかに暑苦しいおデブキャラを思い浮かべるのだけれど、デブを十分すぎるほど自覚し、自分のデブさのせいで他者に与える不快感を少しでも軽減しようと身だしなみを整える努力をするさまはとても微笑ましいというか涙ぐましいというかはっきり言うと滑稽であったりするのだが、自虐的なところまでいかないのが高校生らしい爽やかさを残していて好感がもてるのである。
さて、主人公の陸は、メガネをかけた勉強小僧みたいな「ハカセ」こと「河本博士」くんの「文芸部」に、正式入部しているわけではないのに入り浸っている。ハカセと仲がいいからだ。けれども、自分が来なくなると文芸部にはハカセしかいなくなるし、それではハカセも気の毒だし、自分も文芸部の部室以外に居心地のいい場所はないし、来るのやめたら放課後の時間を持て余すし、などなど、消極的な引き算の結果、陸は文芸部に顔を出しているのだ。が、ほんとうは、ここが誰にも邪魔されずに「日記」のような小説を書くことができる貴重な時間であり場所であるからなのだ。陸は日々の出来事を、文芸部のパソコンを借りて綴っていて、それを、決してパソコンのハードディスクにではなく、自分のUSBメモリに保存している。
そう、「空色メモリ」とは、「青春色した思い出」のことではなく、陸が愛用している記憶メディアの名称なのだ。
空色メモリには、陸が毎日綴ったハカセとの会話、顧問の先生の口癖、誰も来ないと思っていたのにやってきた新入部員の「野村さん」、ひょんなことから知り合った女生徒たちの印象や評価や彼女らとの会話が記録されている。絶対に他人に見られてはならない内容、それが「空色メモリ」にはぎっしり詰まっている。もし読まれでもしたら陸は破滅する。
なのに、空色メモリは人手に渡る。そして「全校生徒に公開するぞ」と、陸を苛む何者かからの脅迫メール……。
ストーリーはそれほど突飛ではなくて、もしかしてこれがこうなるんじゃないのかな?という方向にちゃんと落ちていく。だが、これが越谷氏の技なのだろう、実に上手く高校生の会話をポジショニングして、それなりにスリリングかつほのぼのとした学園ドラマに仕立てているといっていい。作家は、男子の視点で展開していくのが得手のようだ。非モテ系の主要人物「ブーちゃん」「ハカセ」にデリカシーのない体育会系のクラスメートを絡ませ、さらに超イケメンのバスケ部の新エースや遊び慣れている風の自惚れ男子生徒など、人物設定に配慮が行き届いていて(行き届きすぎの感もあるが)バランスがいいように思われる。で、「元」女子高生の視点で読むと、対して描かれる女子高生たちの会話や行動に少し無理があるような気もしないではない。派閥をつくりたがり気に入らない子を無視するような典型的な女王様タイプも登場させるが、(重要人物ではないからだろうが)イマイチ描ききれていない。ま、とはいえそうした点が物語の展開を邪魔しているわけでは、もちろんない。
オバサン視点で読んでやはり違和感を覚えるのは、ひとつ間違えれば深刻な問題に発展するはずのひとつひとつの出来事が、「おおごと」にならないまま消化され、「とりあえずこっちへ置いといて」扱いされ、笑い飛ばされている印象をついもつからだろう。高校生の親の視点で読めば、こんなことが娘にあったらあたしゃ相手の少年をただじゃ置かないわよ、と思うようなこと満載。ま、小説だからよいのである。
C'est beau, l'histoire des ados...! ― 2011/11/11 20:12:31

長崎夏海 著
雲母書房(2006年)
学校側からいわゆる「不良」のレッテルを貼られている中学生たちの物語。
長崎夏海という作家を、不勉強でまったく知らなかったのだが、思春期の少女たちの心模様を、キリキリと錐が鈍く光るように描く作家は他に類を見ないという評判である。へえ、そうなんだ。
思春期特有の危うい友人関係や壊れやすい脆い意志、鋭利な刃物に喩えるには軽すぎて、砕けたポテトチップスなどというと叱られるくらいには強い精神性。個人差はあるが小6あたりから高1までは、ひとつ間違うと、積木くずしじゃないけど崩れるジェンガのように、その心は壊れてしまう。もう子どもじゃないから崩れた破片による衝撃も馬鹿にならないほど大きくて修復にも時間がかかる。
幸か不幸かウチの娘は「積木くずし」にも「スケ番デカ」にも「シド&ナンシー」にもならなかったが(これからなるかもしれないけど。恐)、本書のような思春期ストーリーを読むと、母親(つまり私)の態度次第で彼女の青春はいかようにも翻弄されたに違いないと思わずにいられないのである。
中学に入学し、新しいクラスで自己紹介するときに、舞は自分の名前をいえなかった。
「好きなものは、ライム。以上」
それしか言わなかったから舞のあだ名はその日からライムになった。
名前をいえなかったわけは、小学校5年のときに一緒に飼育当番をした女児の冷たく鋭いひと言のせいだった。あたしがきらいなのはひゅうがまい。そんなふうに言われたのは後にも先にもこのときだけだった。そしてそんなふうに言い捨てて、彼女はそれきり不登校になった。
あたしがきらいなのはひゅうがまい。それを言った当の本人と、ペットショップで再会する。そんなことを言ったくせに、彼女はとても朗らかに、懐かしそうに舞に声をかけ、今度一緒に遊ぼうと提案するのである。彼女は学校に通っている様子がない。遊び場所は「ストリート」だ。こってりメイクが目立つ彼女をストリート常連の少年たちがナンパするが、体よくかわして追い払うのもすでに堂に入っている。ストリートにたむろする若者たちは、別の世界の人間のようだが近しくも感じる。
イケメンで知的、体格も日本人離れしたどこから見ても誰が見てもいい男である父を、自分は素直に素敵だカッコいいと感じ、とても愛していたのだと悟る舞。
しかし高校に進学したら、自己紹介のときにきちんと名乗ろう、そして日向舞に戻るんだ。そんなことを思う主人公である。
瑞々しい10代の感情の起伏を、今現在の言葉に載せ今現在の空気のなかに描いてみせるその力量に舌を巻く。
『ライム』の12年程前には『夏の鼓動』という、同じく高校受験を前にした少年少女群像を描いた作品があるそうだ。そちらも読んでみたい。

前にお弁当の写真をのっけたら、コマンタさんがおいしそう!とコメントをくれたので以来調子に乗って、余裕のあるときにお弁当を撮影するという癖がついた。といったが余裕のない場合がほとんどなので(「お母さん、ウチもう行くよぉお弁当まだぁ???早よしてえー」「はいはいはいはいはいはいはい」)毎日撮れてるわけではないが、それでもちょっくらたまってきたので古いものから順に披露することにする。
Est-ce que cela marchera? ― 2011/10/05 20:17:30
さなぎと前からランチの約束してたので店の前でヤツを待つ。ドア前のプレートに「水曜日レディースデイ!」だって! これはラッキー♪
さなぎは前期期末テスト中。午前中でその日の試験は終わるが、競技会を間近に控えた陸上部は午後練習があるのでずっと「お弁当を持っていかなあかんねん~」。が、今日はマネージャーは参加フリーのお達しが出たので「お母さん、ほら、前から目ぇつけてた、会社の近くのお店、連れてってえ」。
土砂降りだというのに傘を片手にチャリンコで来た娘。いっとき、危険だからと「片手傘乗り」を厳しく取り締まっていたけれど、やめたのかなあ? 傘差してチャリで走っているとぴぴぴっと笛鳴らされて、「傘を差すなら降りてください。でなければ傘を閉じてください」と拡声器で怒鳴られたり。人通りの多い交差点には四つ角それぞれに警官がいた。ああいうキャンペーンめいたことをするときって、暇なんだよね、きっと、警察。携帯電話で喋りながら走っている子も停められてたなあ。いっとき集中的に取締りをして、効果が現れたってことなんだろうか。でも、傘差して走ってる人なんていくらでもいるけどなあ。私も娘もやめてない、傘。私はケータイ操作もやめてない。というか、やっと、最近、片手で操作できるようになったのさ(笑)。
「テストさ、けっこうできたで」
「ほんま? そらええニュース」
「うん。運がよければ50点ある」
「それは50点満点、100点満点?」
「100点満点。へへへ」
「どっち? 数学、世界史?」
「数学」
「そら上出来。世界史は?」
「無知の知ってゆーた昔の哲学者ってソクラテスやんな?」
「えっ……お母さん、知らん、そんなん」
「たぶん、合うてんねんけど、すぐに思い出せへんかって、アから順番に探してん」
「アからって……アルキメデスとか?(笑)」
「誰それ?」
「いや、忘れてくれ」
「ア、イ、ウ……って人の名前探してて、ソまで来てソクラテス思い出してん」
「それは素晴しい快挙や。でも問題、それだけとちゃうやろ?」
「うん」
「ほかの問題はできた?」
「びみょー」
「ソクラテスだけは確実に得点できたし、けっこうできたってことになんねんな」
「うん」
最近会った、いろいろな友達の話をした。私の友達だが、さなぎが見知っている人もいる。30年ぶりに会って盛り上がる同級生とか、ネット上の活動を通じていきなり親しくなる仲間とか、私の交友の在りかたのある面は、彼女には不思議に映るようである。とくに近頃、家ではMacにはりついて友達とメールしたり、ゆうちゅうぶで古いドラマ見たり、ほしいものを検索したりして、遅ればせながらネットサーフィンの日々を楽しむ娘である。高校生の恋愛相談掲示板みたいなやつも覗いている(笑)。以前、さなぎが開けっ放しにしていた画面を見ると、「先生のこと好きになっちゃった」女子高生が書き込んでいた(笑)。
ネタは何でもいいらしいが、ネット上でのコミュニティーに興味があるらしい。誰か不特定多数と意見交換してみたいみたいなことを言う。
福島第一原発が爆発した直後、あるとても若いタレントさんが「原発反対」を自身のブログで主張して、コメントが殺到して炎上した話をした。その14、5歳の少女タレントさんは、すごい売れっ子でもなかったけど、それで一瞬有名になった(でも私は名前忘れちゃったけど)。そんなこともあって、売名行為とも言われたし、現場の労働者の苦労も知らずに勝手なことを言う小娘と罵られてもいたが、大手電力会社の顔色を窺って何もいえない腰抜けの大人どもに比べて、純粋で素直でまっすぐな意見だ君はエライ、ウチの子にも君の主張を聞かせたい、といった賛辞もあったよ。
というような話をしたり、愛するウチダのブログもかつてはコメント投稿できたけど、ネチネチと難癖つけにしか来ない奴がいて、そいつを叩くために内田シンパがまた暴言を吐くから収拾つかなくなってコメントできなくなってしまったよ、という話もした。また、私が今でも所属している翻訳クラブは会員制の閉じた世界で、志を同じくする人の集まりだからいい加減な人間はいない、とか、またかつて盛んに活動した文章塾は開かれた場だったけど、紳士淑女の集まりだった、悪い人変な人ボケた人は全然いなかった、考えてみれば奇跡だったかも、という話もした。
インターネットの大海には、本当にいろいろなものが泳いでいるし、いろいろなものが浮いている。なにもかもが素晴しいものではない。ゴミもある。ただ、ある人にはゴミに見えるものが、ある人にはガラスの空き瓶に閉じ込められた宝の地図のごとく、有益なものに見えることもある。だから鑑識眼をもたないと、ネットとのつきあいはとても疲れる。
ということをいいたかったのだが、わかってくれただろうか。
学校では、探究という科目の中で情報リテラシーについて学んでいるらしい。しょっちゅう小論文を書かされているが、テーマを出され、インターネットでの事前調査を宿題にされている。キーワードをぽいっと提示されて、そのキーワードだけ追いかけていては堂々巡りだから、「その周辺の言葉を拾って情報範囲を広げていかないとあかん、その際の言葉の拾いかたできっと差がつくんやで」というと、「お母さんはそういう言葉の拾いかた、うまいやんな」とニッと笑う。前にも書いたかもしれないけどヤツは私を辞書代わりに使うばかりでなく検索ワード抽出機としても活用しておる(笑)。最近、鼻が利くようになったのかあまり「なあなあお母さん、○○は◇◇であるということについて調べるときはなにで検索したらいいと思う?」みたいな質問をしなくなった。小論文の採点結果はすこぶるいいらしい。「お母さんに見せたら赤ペンで真っ赤に添削したヤツ、あったやろ? あれ、面倒くさいから何も直さんと出したけど、満点やったもんねー」
呆れた論文指導教師がいたもんだっ(怒)(笑)
それでふと思ったが、中高生向けに小論文塾みたいな場を設けたら流行るだろうか?
*
ところで、今日は百恵ちゃんがさよならコンサートを武道館で開いた日だったって。夕刊紙の「今日は何の日」欄に書いてあった。夕刊を読むのは久しぶりだった。なぜ久しぶりに読んだかというと、弟のコラムが載る日だったからである。で、今日のはつまらなかった。というか、やっぱしヤツの文章はイマイチ独りよがりだ。学生のときからそう言ってやってるんだが、まああの頃よりはずいぶんコマシになったが、さなぎの小論文じゃないけど、アタシが事前に読んだら真っ赤にするところだ(笑)。ま、学者の書くもんなんてみんなよがってるけどな。まだヤツはひよっ子だから許されるんかも。
やっぱ小論文塾、やろか?
C'est moins intéressant qu'avant. ― 2011/10/03 22:08:17
ヴァージニア・ユウワー・ウルフ著
こだまともこ訳
小学館(2009年)
『レモネードを作ろう』の続編。
ヒロインのラヴォーンは15歳になっている。
続編といっても、本書の物語は完結しているので、
『レモネードを作ろう』を読んでいなくてもこれはこれで楽しめる。
楽しめる、といったが、
『レモネードを作ろう』に比べるとかなりつまらない。
『レモネードを作ろう』が、けっこう、
米国に点在するスラム街に潜む、
相変わらず解決されていない問題をあぶりだすと同時に、
それでも解決しようと多くの人々や組織が、
積極的な動きを見せていることを、
物語のベースで語っている……という意味で
読み応えがあったといえるのに比べて、
本書『トゥルー・ビリーヴァー』は、
軸になっているのがヒロインの純粋な恋心だったりするので、
いくら米国社会の病巣をやはり描いている、といっても、
訴求力はかなり弱いといえばいいだろうか。
で、こんなふうに、前作同様、
文をブツ切って書かれているので、
やっぱ女子高生のつぶやきとゆーか、
ケータイブログ見ているみたいというか、
若干じれったくてイラつく挙げ句に
ヒロインの恋はなーんだありがち、な感じで終わる。
ヒロインの母の恋もなーんだありがち、な感じで終わる。
だから私などはつまらねえ、と思う。
いや、しかし。
それでも、日本のティーンエイジャーに読んでもらいたい!
と強く思う。
そのわけは、ヒロインのラヴォーンが、
将来、面接試験を受けたり、大学進学や就職をして、
社会へ出るときのために、
「正しい話し方」の授業を受けるシーンが
頻繁に出てくるからである。
原書では当然「正しい米語文法」を教師が教えているはずだが、
訳者はみごとに、現代の日本語の乱れをそれに呼応させ、
我が国の、めちゃくちゃな若者(ばかりではない)の言葉遣いに
間接的に警鐘を鳴らしている。
日本の中高生、必読。
たぶん君たちなら、面白く読めるんじゃないかな。
『レモネードを作ろう』は、
ちょっと日本の状況とはかけ離れていたけれど、
本書はもう少し自分に引き寄せて読めると思う。
でも、恋の行方はとってもアメリカ的だけどね。
両作とも、出版社はそれぞれ「感動の大作!」なんていってるけど、
それほどでもない。
どちらも、等身大の物語でありながら、日米の文化の違い、
社会の違いをこれでもかと知らされる内容だから、
ある人にはショッキング、ある人には「ついてけねえー」、
ある人には織り込み済み、または関心外だろう。
それでも両作とも読む価値はあるよ。
このヒロイン、ラヴォーンの物語は3部作らしい。
次の物語では、ラヴォーンはさらに成長しているだろう。
私としては、もうちょっと脱線してもらいたい。
この2作とも、ヒロインはいい子過ぎる。
周りがハチャメチャなので、
ヒロインの常識人ぶりが不必要に際立つ。
大人にぐっと近づく前に、ぐたぐたべこべこになった
ラヴォーンを書いてくれたらもう少し読む気が起こるかも。
さて、作家志望の諸君のために著者紹介。著者はあのヴァージニア・ウルフとは全然関係なくて(まだゆってる)、こんな人である。どっかのサイトの引き写しでごめん。作家としては遅咲きみたいよ。
ウルフ,ヴァージニア・ユウワー
Wolff, Virginia Euwer
オレゴン州ポートランド生まれ。大学を卒業してから結婚し2児をもうけた後、小学校、高校で英語を教える。後に離婚。50歳を過ぎてから執筆をはじめ、現在は教職をやめて作家活動に専念し、ヤングアダルト向けの作品を書き続けている。デビュー作品で国際読書協会賞ほかを受賞して以来、数々の賞を受賞している。邦訳は『レモネードを作ろう』(徳間書店)。
C'est assez intéressant. ― 2011/09/30 02:37:09
ヴァージニア・ユウワー・ウルフ著
こだま ともこ訳
徳間書店(1999年)
14歳のラヴォーンは母親と二人暮し。
小さな頃に父親を亡くした。
母親が働いて生活はなんとかやっていけている。
だけどラヴォーンは、この町の、この暮らしから脱出したいと切に願う。
どうすればいいんだろう。
そうだ、勉強して大学にいくんだ。
固く決心するラヴォーン。
素晴しいわ、あなたが大学へ行きたいと願うなんて。
母親は心底嬉しそうで、あなたならきっとできると娘を励ます。
たくさん勉強しなくちゃね。そしてお金も必要だわ。
お金。ラヴォーンは自分も何かしなくては、
と健気にアルバイトを探すのである。
アルバイトをすれば、勉強時間を削られる。
できるだけそういうロスタイムのないように働くにはどうしたらいいのだろう。
ラヴォーンが見つけたのはベビーシッターという仕事。
小さな子どもの世話をして、保護者が帰宅するまで留守番していればいい。
子どもを寝かしつけたら勉強していればいいんだし。
これっていいかも!
ラヴォーンは掲示板で見たベビーシッター募集の広告主を訪ねる。
まだハイハイもできない赤ん坊。
おむつの取れない3歳児。
二人の乳幼児を抱えて、四六時中町工場で働くのは、
17歳のジョリー。
ジョリーははっきり言わないけれど、
上の男の子・ジェレミーと、下の女の子・ジリーの父親は、違うみたいだ。
17歳の二人の子持ちのシングルマザー。
14歳のベビーシッター。
その母親は子育てと仕事を両立させてきた強い女性。
ラヴォーンの母親から見るとジョリーは危なっかしくて「めちゃくちゃよ」。
ラヴォーンにはそんなアルバイトはやめてほしい。
ラヴォーンだってわかっている。
ジョリーの影響は少なからずあるし(言葉遣いが悪くなった)、
留守番中の勉強なんてほとんど捗らないし、
実際成績は落ちるし、
ジョリーは工場をクビになってバイト代の支払いは滞るし……
だけどラヴォーンは、やめない。
ジェレミーは、いつのまにかラヴォーンになついて離れない。
ラヴォーンを見ると安心する。
ラヴォーンにのせられておむつも外れちゃった。
ベッドメイキングだってできるようになった。
ラヴォーンが蒔いたレモンの種の芽が出るのを、
今か今かと待ち続けるジェレミー。
ラヴォーンは、この子たちに「普通の」環境で育ってほしいと思う。
ジョリーが、途中でやめた学業を再開し、
社会へ出ても恥ずかしくない程度に読み書きができ(今は知らない言葉が多すぎる)
きちんと手続きをして福祉サービスを受け、
子どもたちに十分な保育環境を整えて。
そこまで、この親子3人にたどり着いてほしい。
ラヴォーンはその実現のために本気でこの親子にかかわっていく。
……というふうに、なんだか散文詩みたいな書きかたをされた小説である。YA小説を引き続き読んでいて、なんだかめぼしいものはみんな借り出されちゃっているので、あんまり残ってないなー何でもいいかな、日本の作家のものが読みたいんだけど、アメリカもんでもいいか、あれ、何だこれ、ヴァージニアウルフってYA小説まで書いてたのぉ???
と、大いなる勘違いで借りたのがこの『レモネードを作ろう』である。
開くと、余白の面積がやたら大きいのである。上でつらつら書いたように、センテンスは短く、長い場合は読点で改行されてて、1行がページの下端まで到達することが全然ない。叙事詩じゃないんだからよ。たくもう。失敗だったかなこりゃ、だって私ったら底抜けの馬鹿よねヴァージニア・ウルフなワケないじゃん。とアメリカンな自分突っ込みをしたりしながら読み進んでいくとこれが意外と深刻なネタで、まったくお母さんは呆れてものが言えないわっみたいな内容である。
こういうのを読むと、いつかドラマでやっていた『14歳の母』なんてのは、めっさニッポンなんだよねえ、甘くて口当たりいいのよねえ、と思っちゃうんです。
Qu'est-ce que c'est le terrorisme? ― 2011/09/16 21:28:45
加藤 朗著
かもがわ出版(2011年9月11日)
表紙の装幀はいかにもツインビルを髣髴させるオブジェの写真なのだが、編集段階ではいくつか案があって迷っていたようだ。どこかのブログに書いてあった。
そのブログに載せてあった別の案は、「テロ問題」というテーマを踏まえた場合、いずれも説得力のないように思えた。このテーマと関わりないデザインだとしても、13歳あるいは中学生の関心を惹く表紙になってはいなかった。さらに、頭が固くなって想像力の働かない大人には、どの案でもテロを思い浮かべるのは無理だろう。最終的に決まった表紙の写真は、あたかも破壊された二つのビルを象徴しているように私には思えたが、全然連想できない人もいるだろう。タイトルと、目次などに目を通して初めて、あ、あのテロねと気づく。そういう人が多数派かもしれない。
本書の中で中学生たちが素直に吐露しているが、「テロといわれてもピンと来ない」、それがふつうの日本人の感覚だ。テロというとき、現在の日本人が真っ先に思うのはグラウンド・ゼロ、すなわち同盟国である我らが友人アメリカ合衆国様が多大なる被害を受けた「あの」同時多発テロであろう。その次には、いわゆるパレスチナ問題に思いのいく人が多いのではないか。自爆テロといえばそれはパレスチナ人がイスラエル人を道連れにして殺す手段の代名詞である。
本書ではこのほかにアフガニスタンのタリバンによるテロなどが例示される。古くはたった一人を狙った暗殺もテロだった。テロは体制に反感をもつ者が自己主張をするための暴力的手段である。時代を経てそれは大掛かりになり、本当に殺したい個人を狙うのではなく、国家や政府が対象となるために「暗殺」では追いつかないから、何のかかわりもない無辜の市民をいわば人質にして、多数巻き添えにして命を奪うというパターンになって幾久しい。
本書の中では、テロという行為にある二面性について真剣に議論されている。ビンラディンの主張の正当性は、米国から見れば極端な原理主義による狂気に過ぎず、米国が振りかざす正義や民主主義は、ビンラディンあるいはアルカイダあるいは一般のイスラム教徒たちにとって権力者の寝言にしか聞こえない。双方が自身を正義もしくは神の意思の遂行者と信じている。それによる行動をテロと呼ぶとき、テロは誰による、誰にとってのテロ(恐怖)なのか。オバマ政権があっさり有無を言わせずビンラディンを銃殺してしまったが、この行為も向こう側(パキスタン、イスラム教徒)から見ればテロである。
表と裏にはそれぞれ言い分がある。
神の名のもとに、悪者を成敗したのだ。
どっちも、そう言う。
愛する者を殺され、許せないから復讐した。
どっちも、本音だろう。
神の名のもと、正義の名のもとであれば武力に訴え人を殺してよいのか。
中学生たちに答えは出せない。
もちろん加藤氏にも、出せない。
本書の企画のために、実際に、加藤氏が中学3年生を相手にテロをテーマに授業をしたそうだ。丁寧に編集されているのを感じるが、また、中学生も先生も非常によく考え抜いたようすが窺えるのだが、どうもその臨場感がいまひとつ伝わってこない。思いのほかいいことを言う中学生たちであるし、また素直に考え抜いて発言している。わからないことはわからないと言う。わからないままにせず必死で考えてもいるようだ。それは透けて見えなくもないが、たぶん現場を共有した加藤さんほどには、読者は議論の内容に共鳴できない。それは、この問題が考えれば考えるほど堂々巡りになり永遠に答えなど出せそうもないということが早くに露呈してしまっていることにも原因はあろう。だが、もう少し誌面のつくりや編集方法に工夫がされていたら、とくに中学生くらいの読者は出席者に共感を覚えつつ読み進むことができるのではないだろうか。
各章のあとに「大人のための補習授業」と題して、大人向けのちょっぴり難易度の高いヴォキャブラリーを用いた解説ページを設けてある。大人の読者にはそれがありがたいかというと、そうでもない。その内容はすでに中学生と先生が議論したじゃないのさ、それを少し書き直しただけのことじゃないのさ、という感じだ。同じようなことを二度読まされるのは、まったく同じではないにしても、ちと、しんどい。
と、ここまで読まれて皆さんはどう思われるだろうか。本書は、たしかに、テロ問題の権威が中学生と行った議論を採録する形で書き下ろした、テロについて考える本である。
「だけどなんだかつまらなそう」
そういうふうにお感じではないか。
テロに関する本が愉快なわけはない。
でも、そうじゃなくて、つまんなーい、のだ。教室で先生と一緒に考えて発言をひねり出している中学生、それを受け止める先生、双方ともにエキサイティングな時間だっただろう。しかしそれをいわば見物している形の読者には、さんまや紳助がイマイチなタレントや芸人をずらっと並べて喋らせて揚げ足とっていたぶり、それを見た収録スタジオ見学者の笑う様子をテレビ越しに見て「ちっ……くだらねえ」と舌打ちする気分に似ている。あんたたちは楽しそうだけどこっちは全然よ。
そして、もう一つ原因がわかった。これは私だけの印象である。時間と紙幅の関係から昨今起きたすべてのテロについて解説し考察するわけにはいかない。だからしゃあないけど、チェチェンのことにぜーんぜん触れていないのが悔しい(笑)。
ロシア側はチェチェン独立派によるテロという表現をするが、チェチェンから見れば先にテロ行為を国家規模で先に働いたのはロシアなのである。
チェチェンをネタにすれば事はまたしても複雑になる。中学生にとってかの国そして旧ソ連組は理解を超えて超えて超えすぎる。
わかっちゃいるが、チェチェンのチェの字もなかったことはやっぱ悔しい(笑)。ふん。
《それは、今までに経験したことのないような至福の時間であった。(中略)私が授業をして生徒の発言を引き出しているのではない。生徒たちの発言が私に授業をさせているのだ。教えるなどと不遜な気持ちは抱きようもなかった。教育ではない。まさに「共育」。生徒も教師も授業を通じて共に育っていくことが教育の本質だと実感した。》(159ページ、あとがきより)
というわけで、加藤先生も中学生たちも至福の時を過ごされたようなのでめでたしめでたし、なのである。
今日、ニュースが、大阪の府教委の委員が橋下知事率いる「維新の会」が制定しようとしている「条例」にいっせいに反発していると伝えていた。国旗掲揚国歌斉唱の強制も然りだが、国の名のもとに「教えさせてやっているのだ」といわんばかりに役人が教師を顎で使い、教育の名のもとに「教えてやっているのだ」と教師が子どもを上から抑えつけ、権利の名のもとに「来てやっているのだ」と学ぶことを放棄した餓鬼が集まる場所、それが学校である。それが日本の現状である。それぞれがそれぞれのやりかたで、他方ばかりか自身の首をも真綿で締めつけるように、崩壊の一途を辿っている。それが日本の教育現場である。陰湿さが売り物の、これこそ日本流のテロリズムに他ならないと思ったりもするのだが、どうであろうか。
Je suis sûre que, si c’était moi qui avais aimé cet homme-là, la fin de cette histoire avait été si différente… ― 2011/09/14 18:58:20
姫野カオルコ著
角川書店(角川グループパブリッシング/2003年)
本書が発売されたときに、書評を何かで読み、すごく読みたくなった。これは読まなければ。非常に強くそう思ったのを覚えている。ちなみに私は姫野の作品を一つも読んだことがなかったし、評判を聞いたこともなかったし、若いのかそうでないのか、作家としてのキャリアもまるで知らなかったし、今も知らない。『ツ、イ、ラ、ク』を読みたくなったといって、いきなり姫野カオルコとは誰ぞやと調べてみることもしなかった。
本書は人気作品なのか、図書館ではいつも貸し出し中だった。何が何でもどうしても読みたい本、読まなければならない本は予約を入れるが、本書についてはそれをしなかったので、たぶん当時の私には、いくら読みたいという気持ちがあっても予約するというアクションを起こすほどの熱意をこの小説にもつことはなかったのだろう。しかし私だって小説の書架を眺めるときはあるので、書架の「作家名ハ行」の棚に姫野カオルコの名を見つけると、『ツ、イ、ラ、ク』を思い出した。しかし『ツ、イ、ラ、ク』はいつも、なかった。しょうがない、他の作品を読むかな。……と、思ったことは一度もない。姫野カオルコという作家に関心があったわけではなかったから。
そのうち、私は『ツ、イ、ラ、ク』を忘れてしまっていた。書架に姫野の名を見つけても、(例によって『ツ、イ、ラ、ク』はなかったから)『ツ、イ、ラ、ク』を思い出すこともしなくなっていた。なぜあれほど読みたいと思ったのだろう。新刊書の書評なんてものは、あらすじを語っていてもネタばれするわけにはいかないし、作品にかんしてたいした情報を提供してくれるものではないのに。
ところが、最近になってようやく、我が図書館の常連組がようやく手放す気になったのか(笑)、『ツ、イ、ラ、ク』が書架にあったのである!
実は他の作家の名前と作品を探して「作家名ハ行」の棚を見ていたのだが、なんとそこに、しれっと、本書が並んでいたのである。あ、あったあーーーついらくーーーーーーっと(小さくだけど)叫んでいた私。
ためらうことなく貸出し手続きを済ませて家に持ち帰り、ずいぶん分厚い本だから長編小説なんだけど、がーーーーっと一気に読んでしまった。これがこの人の書きかたなのかどうか知らないが、語りの主体がコロコロ変わって見えるし、ところどころノンフィクション系筆致になるし、記号など駆使して字面をややこしくするし、正直いって、読んでいて、あまり快適さを感じる文章ではない。そんな回りくどい言いかたしなくても。そこでその説明必要なのか? それは説明しているようで実はしてないぞ。……などなど、はしたないけど心中で「ちっ」と舌打ちしたくなる箇所があまりにも多い。ところが、ヒロインの隼子というキャラクターがあまりに凛と立っていて、この子をめぐるさまざまなことが、次の展開をいい意味で予測させいい意味で裏切らないので、次はどうなる、やっぱそうなる、なるほどそう来たか、思ったとおりだ、てな具合に非常にテンポよく読まされてしまう。
私はなぜ、この小説を読みたいと思ったのか、それはけっきょくわからずじまいであった。8年前、本書の新刊当時、私はまだギリギリ(笑)30代だったが、ヒロインとその同級生たちは物語の終わりで34歳になっている。同級生たちはそれぞれに中学校時代を振り返ったりする。あんなにどうでもいいことに必死だった、夢中だった、些細なことに感動し、些細なことが許せなかった。そんな中学生の頃。読者は同じように郷愁を覚え、胸キュンとなる。作家の狙いはそこか? もし私がすんなりと30代の終わりにこれを読んでいたとしても、中学校時代に思いを馳せ胸キュンなんて、絶対ありえなかったと思う。私はその頃忙しすぎて(今もだけど)目の前の雑多な事どもに追われて雑多な事どもを追いかけて(今もだけど)、転職したり失恋したり(もうしてないよ)、同級生なんて眼中になかったし(もうそんなことないよ)。
私の中学校時代には、教師と恋に落ちるやつもいなかった(いたかもしれないけど若い教師がいなかったし)。ひどい噂を立ててポルノの切り抜きを黒板に貼るような奴もいなかった。中途半端な都会の中学校は色恋沙汰も非行も喧嘩も勉強も、イマイチぱっとしない集団だった。だけど私たちには私たちの青春がたしかにそこにはあったわけで、この5月に何年ぶりかの同窓会を経験した私は、亡くなった雅彦や、ちょっとおかしくなったという噂の慶子のことを抜きにしても、『ツ、イ、ラ、ク』を読んで、ああ、そうだったよね中学時代……と懐かしい心地よさに満たされたことは白状する。
でも、この小説のツボはそこではない。登場人物たちの、実に小学校2年生から中学校卒業までのストーリーが長編のほとんどを占める小説でありながら、これは読者を郷愁に誘う物語ではない。読者が本気で人を愛した記憶があるなら、この小説によってその記憶は呼び覚まされ体の中で脈打つはずだ。幾つのときかは関係がない。『ツ、イ、ラ、ク』は女子中学生と大学出たての教師との恋が描かれているのだが、中学時代に恋に落ちた経験がなければ感動する資格がない、のではない。恋に落ちる瞬間はいつでも誰にでも訪れる。その意外なきっかけ、意外なシチュエーション、お決まりの展開、お決まりの睦みごと、それは百人百様の色彩であるいはモノクロームで記憶に残っているものだが、それを見事に甦らせてくれるのが本書だ。
あのとき、たしかに私は墜落した。そう、あれから始まったんだ。
そんなことをつい、読みながらつぶやくのである。
Ca ne finit toujours pas... ― 2011/09/09 19:19:08
マイケル・モーパーゴ著、佐藤見果夢訳
評論社(2007年)
痛い小説だ。
第一次世界大戦のさなかに起こった本当にあったいくつかのエピソードを基にして書かれた物語。年端も行かない少年が、戦地に駆り出され、上官からは嫌がらせや拷問を受け、前線では苛酷な戦況に足を竦ませ……
第一次大戦は1914~1918年間続き、他の戦争の例に漏れず、人の心と大地を荒廃させた。舞台である英国は階級社会で、軍人や地主が大威張りで使用人をこき使い、胸三寸で解雇も配置換えもしたような時代。それでも戦争の影がまだ色濃くないうちは、そんないけすかない雇い主や、四角いアタマの教師、頑固で古臭いジイサンバアサン連中を、庶民や子どもはうまく出し抜いたりやり込めたりして、貧しくても知恵を使い、厚みのある暮らしをしていたのだった。
冒頭で主人公が、残された時間を、世界にひとつしかない宝石を握り締めるようにいとおしんでつぶやく。この冒頭で、まだ18歳にもならないこの少年を見舞う苛酷な運命を、読者はなんとなく想像することができる。そして、1行空けて、主人公の少年は、辛いことも悲しいことも驚いたこともあったけれど、キラキラと輝きに満ちていた幼少時代を少しずつ回想していく。文体は、本書が児童文学として分類されていることからもわかるが平易である。情景描写は童話的で、豊かな森林や、古い聖堂の威容など、絵画のように読者の目に立ち上がる。時間の流れもゆったりしていて、登場する子どもたちは無邪気で生意気である。
父親が死に、主人公はその死の原因が自分にあると自己を苛んでいる。その心の底の、彼にとっては小さくないこぶが、母や、兄や、兄の恋人との関係に少し影を落としたりもする。
母子家庭となった家では生活に困窮し、兄弟は領主の敷地で魚や農作物を盗んだりもする。それでこっぴどく罰せられる。だがそうした、そのときはえげつないように見えるひとつひとつの事件が、少年たちのハートをけっきょくは打たれ強い頑健なものにしていった。彼らの強さが家にささやかな幸福をもたらすかに見えたのだが。
ドイツ軍が侵攻し、若い兵士たちが次々と駆り出されていく。十分な訓練を受けていないまだ子どものような兵士たち。彼らの敵はドイツ兵よりもまず自分の恐怖心だ。臆病風に吹かれて逃げ出したが最後、そんな兵士は必ず捕らえられて自国の軍事裁判にかけられ有無を言わさず銃殺刑に処せられる。
主人公兄弟の上官は狂気に走った軍曹で、作戦も何もなく闇雲な突撃を命令する。ただそこにいるだけで必ず殺されるのに……。
物語の最後のほうで、主人公は父の死にかんする心の傷を兄に打ち明ける。だが兄は笑って、母さんも俺も知ってたよという。でもお前のせいじゃないよ、断じて違うよと。
第一次大戦のとき、300人近くのイギリス兵士が脱走ないし臆病行為により銃殺刑に処せられた。そのうちの2人は見張り番をしていて居眠りしていたことが理由だったという。
本書はそうした臆病行為の罪で銃殺刑になった若いイギリス兵の実話を基に、書かれた。けっきょくこの戦争では数百万人の戦死者が出たのだが、その一人一人にどのような人生の物語があったのか、それを掘り出して語り継ぐ試みは、日本と同様、英国でも遅々として進んではいないようである。
心臓をわしづかみにされ、捻り潰されるかと思うほど、痛い小説だ。中高生に読んでほしい。
Les jeunes sont comme des fruits verts, mais ils sont tres forts... ― 2011/05/17 20:14:02
草野たき著
ポプラ社 (2009年)
もしかして短編ならけっこう面白いかも、と思って草野たきに再チャレンジしたのが本書。これは、なかなかに痛い毎日を送っている少女がその「逆境」にめげず、負けず、耐えるばかりでなく「反撃」に出るストーリーを5人の少女分、5編をまとめた短編集。物語のほとんどを、一人称で少女自身が語る自分自身の葛藤の日々が占め、そして、反撃に出てなんらかの「成果」を得た数年後、イキイキと自分らしく生きる当の主人公を、今度は三人称でまとめて締めくくる、といった体裁。その締めくくりの部分に出てくる主人公の友人が、次の短編の主人公になる、というふうに連なっている。
5つの短編のあらすじは検索かければけっこう出てくるのでもう書かない。
ポプラ社サイトでの紹介ページはここ。
http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80010230
前エントリで挙げた『メジルシ』を思わせる、(私にとって)草野たきらしい流れは「いつかふたりで」。『メジルシ』の後半のくだりのように、母と娘のちょっと説明的な会話が残念な感じ。この一編はそういうわけで結末も早くに見えてしまった。
でもそれはあまり問題ではない。どの少女も基本的には真面目に精一杯の努力をして、毎日をよりよくしたいと思いながら生きている。努力の方向が少しずれてる、勘違いしてる、というところが悲しくもあり笑わせるところでもある。何もかも思いどおりではないにしても、結構いいカタチで大人への階段を上っている、そのことの窺える結末が読後感をよいものにする。
とてもとても僭越なことを申し上げるけれど、『メジルシ』よりは数段いい。上達したじゃない草野さん、という感じ。読者として想定しているのは中学生だが、幅広く見積もれば小学校6年生から高校1年生までイケるだろう。『メジルシ』は部分的に冗長で主人公の振る舞いにでき過ぎの感があったが、本書の短編はそれぞれ短編として必要十分、冗長さはなく、複雑な物語でもなく、まさにウチのお嬢さんあたりにうってつけである。というわけでこれもヤツに薦めてみよう。
Et voilà ce que j'avais pensé depuis... ― 2011/05/15 19:18:05
草野たき著
講談社(2008年)
中学3年生の双葉(ふたば)。卒業後は全寮制の高校に進学する。それと同時に両親は離婚することが決まっている。三人別々の暮らしが始まるのだが、双葉は取り乱さず傷つかず冷静に受け入れている。両親の離婚は、修羅場があったわけではない。母親・美樹の、大学院へ行ってじっくり勉強したいという一方的な希望に起因する。だからって、なぜ離婚までしなければならないのか皆目わからない父親・健一。けれど、健一は美樹を愛するが故に同意する。そして最後の家族旅行を提案、計画し、北海道にでかけることになった。
絵に描いたような善人だが、今よく使われる言い方をすれば「空気の読めない」父の健一。いつも冷静かつ不愉快そうな顔をしていて、双葉と目を合わそうとしない母の美樹。
双葉には手に火傷の痕があり、幼い頃に美樹の不注意から負った傷だということになっている。が、双葉は、なぜなのか自分でもわからないが、真相は別にあるとどこかで思っている。普段の美樹の態度、時折疼く自身の心の奥底……ただ、気がかりのような、不安のような、言葉にはできないもやもやした納得できない感覚を抱えたまま、双葉はそれでもつねに「大人」でいようとし、ものわかりのよい一人娘として振る舞ってきた。そのことに誇りすら感じて今まで生きてきた。だから離婚だってどうってことない。自分自身も、寮生活を通して自立し、自分の道を歩むのだから。
家族旅行なんて今さら鬱陶しいだけ、と双葉は思ったし、どうやら美樹も同様だ。健一だけが無理矢理はしゃいでいる。双葉は親友や彼氏とときどきメールを交わし合って気を紛らす。
しかし、ありきたりな観光旅行とはいえ、非日常に身を置いたことで家族は真に次のページをめくることになる。
一見よくあるよさげな家族は、実はバラバラ。かっこいい理由で離婚を認め合う進歩的なメンバーである振りをしつつ、実は自分に嘘をついたままごまかしたまま仮面をかぶり続けることに苦しんでいる。『メジルシ』が描くのは、けっこう近年使い古されたテーマ「家族」の、ある再生のかたちである。小説の中では再生には至らないが、辛い記憶の目印だったものが再出発の誓いの目印に変わろうとするさまを描いた小説であるとでもいおうか。
というと、とってもいい小説のようだけど、やはりそこはヤングアダルトに分類される作品なので、説明しすぎるというか、わかりやすすぎるというか。
昨今の、本をあまり読まない、深読みできないティーンエイジャーの傾向を汲んでいるのだろうかと思わせるほど、手取り足取りの描写ですいすいすいと読み進ませ、なんだかちょっともったいない。読み手を読解力発展途上中のティーンズと仮定するならなおさら、もっと想像力をかき立てるような表現で、迷わせたり立ち止まらせたり、悩ませたりしながら引っ張ってほしいなと思った。
「家族」はよくあるありきたりなテーマとはいえ、切り口次第で面白いものになる。本書も、目のつけどころはとてもよいと思う。そして、作家はきっと元来筆力のある人である。思うに、これは編集サイドの余計なおせっかいの「成果」ではないか。草野さん、もっとていねいに、もっとわかりやすく、こんなふうにあんなふうに書かなくちゃ、中高生は読んでくれませんよ。とかゆってないか?
娘が中一の時に『ハーフ』を借りてきて、借りてきたままいっこうに読んでいなかったので横から失敬してしゅしゅっと読んだことがある。その時も、面白いことをネタにしたなあと感心しつつよくわかるように描かれすぎているために残念な出来映えだなと感じたことを覚えている。
だが、文字どおりヤングアダルト(っていったいどのへんの子どもたち?)には受けているのだろう、順調に次々と作品を発表し、いずれの単行本も好調らしい。
『メジルシ』は図書館で偶然見かけて、表紙の飛行機が可愛いので借りてみた本だった。ずいぶん前に読んだのだが、この週末、娘と「本をもっと読めー」「読んでるやんダンスマガジン」「そりゃ本とちゃうやろ雑誌っつーの」「雑誌でも字が書いてあるやん」「その字をオメーは一字も読んでへんやろが写真ばっか見て」「ぐ」……
というような会話の挙げ句、草野たきならオメーにも読めるからその辺から始めろ、という話になって『メジルシ』を思い出したのであった。
